日本禁酒同盟のあゆみ


◆禁酒運動
 
 日本における禁酒運動の歴史は、明治6(1873)年横浜における外国船員禁酒会、またこれに刺激されて明治8(1875)年に奥野昌綱らによって同じ横浜で禁酒会が組織される頃にさかのぼります。外国船員禁酒会はその名の通り外国船の水夫を主とするもので、当時のイギリス公使パークス(Sir Harry Parks, 1823-85)らがこの会を奨励したと記録されています。奥野らの禁酒会は日本人による最初の禁酒会とされていますが、この会は短期間で解散してしまいます。
 全国的に禁酒運動が活発化するのは明治19(1886)年米国基督(キリスト)教婦人矯風会のレビット、明治23(1890)年同アッカマンらが来日して禁酒遊説を行って各地に禁酒会が組織され、また安藤太郎がハワイ総領事を辞して帰国し、禁酒運動の中心人物となって以降のことになります。

※基督(キリスト)教婦人矯風会( Woman's Christian Temperance Union (WCTU) )
※クレメント・レビット夫人( Mary Clement Leavitt )
※ジェシー・アッカマン( Jessie A. Ackermann )

◆安藤太郎

安藤太郎  安藤太郎は幕末に海軍副総裁榎本武揚に従い函館五稜郭の戦いに破れて囚徒となり、赦免されて明治政府の官吏として大蔵省、外務省に務めました。明治4(1871)年岩倉遣外使節に随行し、明治7(1874)年には香港副領事、明治17(1884)年には上海総領事、明治19(1886)年にはハワイ初代総領事(当時はハワイ国)に任命されました。
 安藤は4、5歳の頃から飲酒を始め、20歳前後にはひとかどの鯨飲家となっていました。そのため妻文子夫人の苦労も相当なものであったといいます
 明治20(1887)年12月11日、2樽の日本酒がハワイ総領事の安藤のもとへ届けられました。1つは逓信大臣榎本武揚が移民取り締まりのため遠いハワイにいる安藤を慰労するための贈物、もう1つは日本郵船会社社長森岡正純からの進物でした。その酒樽を文子夫人が割って捨ててしまう事件があり、これを機に安藤は禁酒したといわれています。





安藤文子 樽割り美談の真相
 
<安藤文子夫人の手記>
 
 ハワイで酒樽を取り捨てました事は毎度人様からお尋ねにあずかりますし、また折々まちがった事が書き物などに載せてありますから、一と通り書いて置きます。
 安藤が自分でも毎度話します通り、当人は中々の大酒家で、それがために身体を害し、その他いろいろ不都合もありますから、たとえ禁酒は出来ませんでも、せめて分量でも減らしたいものと私も始終苦心しまして、毎度それがために言い合いも致した事がありました。ところが、ハワイで美山さんにお目にかかりまして、いろいろお話を聞いて見ますと、一生禁酒する人が米国にはいくらもありまして、そしてまたそれも決して出来ない事ではないと伺いましたから、ドウカ安藤にも一生涯禁酒をさせたいと存じまして、そのころ移民の新規取締を立てるというを幸い、先ず自分から手本にならなければならんと、しきりに禁酒を勧めましたが、当人も禁酒を善い事と十分承知して居りましたなれど、何分その決心が出来ませんでした。
 すると丁度、明治二十年十二月、日本から移民を乗せた船がハワイに参りました。その船で榎本逓信大臣と森岡郵船社長のお二人から、日本酒を二樽、安藤へ下さいました。私はこの際困った事が出来たと存じて居りましたが、当人は余程喜んで居った様子でした。そしてまた領事館の人々の内にも、やはり好きの方が居られますから、この二樽を飲み出されては大変だと存じ、さっそく美山さんに伺いましたところ、煙草なら人にやっても済みましょうが、酒はどうも捨てるより外致し方がありますまい、との事でした。
 私も、それで大いに勇気が出まして、安藤に、捨ててしまうよう勧めましたところ「いかに飲酒が宜しくないからと申して、せっかく榎本様方からご親切にお贈り下さった物を、捨てるという事は何分出来ない。何しろ少々味って見よう」と申して承知しませんから、余儀なく片口で少々出しました。すると、当人は猪口に一杯飲んで見て、「これは美酒だ」と大そう誉めました。「もう一杯」と申しますから、私は直ぐに残りをベランダの外に、こぼしてしまいました。
 かれこれする内に、安藤は用事ができて外出いたしましたから、お贈り下さった方へは、実に相済まない事と存じましたが、何分このままに致して置けない場合でありますから、思い切って、馬丁の近藤と申す者に命じまして、右の二樽を領事館の裏手の空地へ運ばせました。ところが、丁度そこに掃溜めがありましたので、馬丁は鉄鎚を持参して、酒樽の蓋を打ち砕わし、八斗の酒を掃溜めの中へ全くあけてしまいました。その後承りますと、その穴へ火を附けましたら、終夜燃えて居ったそうです。
 一時間ばかりで安藤が帰りましたから、その始末を話しましたところ、当人も最早や仕方がないと断念したと見えまして、それなら、これを好機会に一生涯禁酒しようと決心致しました。それいらい一滴の酒類も、宅へは入れない事に致しました。これがハワイの酒樽処分の事実でございます。
 
※「日本禁酒運動の八十年/東京禁酒会1890-1970」(小塩完次著)より

安藤太郎の総領事在任当時のハワイ総領事館
 
安藤の総領事在任当時のハワイ(布哇)総領事館。べランダに安藤夫妻の姿が見える。

<註> 美山さん:美山貫一のこと。山口県萩市出身。サンフランシスコ(桑港)のメソジスト(美以)教会牧師。明治20(1887)年ハワイに渡り、日本人移民の生活向上に取り組む。




◆東京禁酒会の発足

 安藤は明治22(1889)年10月に帰国し、翌11月15日、再興した横浜禁酒会に迎えられて禁酒演説を行っています。翌明治23(1890)年3月末、東京禁酒会が発会し、同年11月、会長に安藤太郎、副会長に根本正が就任しました。安藤は「東京禁酒会の来歴」と題し「東京禁酒会月報」の第1号に次のように記しています。


 東京禁酒の今日あるや、決して偶然に非ざるなり。回顧すれば本年三月、米国婦人禁酒会(矯風会)において有名なるアッカマン嬢、遠くその本国より南洋諸国を経歴してわが国に来遊の際、その滞京僅々十数日に過ぎずといえども、その間、嬢の各所を奔走し、その快弁と熱心とを以て禁酒の社会に必要なるを痛論せしより、至るところ聴衆は感動して、禁酒を誓約せし者陸続として絶えず、その数六百有余名の多きに達したり。而して当時、嬢の接待周旋に終始びん勉従事せられしは有志の婦人にして、なかんづく佐々城、潮田の両氏は、嬢の志を継ぎ、内外同志者と相謀り、遂に一大禁酒会を創立し、名づけて東京禁酒会という、実に本年三月二十八日の事なりき。じらい同会には、其の進歩多少の緩急ありしと雖も、当局者は官折不撓、再び今回その規模を拡張し、以て禁酒の功徳を盛大ならしめん事を計画し、役員改選の挙あるに至れり、これ其の月報発兌の必要を感ずる所以なり。
 それアッカマン嬢は米人なり、しかるになお善くわが輩外人を酒害より救済せん事に勉めたり。嬢と提携して終始尽力せしは婦人なり。婦人はわが輩東洋男子が、積年小人視せし所なり。然るに今、この偉業を起してわが輩男子を鼾睡より喚起せり。まさにこの時、わが輩は、この外人と婦人とに対し、なおかつ樽前に狂酔を発し、酒中の仙と自尊して可ならんや。是れその発起者が、異常の賛成を得て、じらい益々事業の隆盛に赴きたる所以なり。余やハワイの日本人禁酒会に於て嬢に恩誼あり、今また本邦に於て此の盛挙に会す、因縁浅きに非ず。因って今ここに共の来歴を観述し、以て会友諸氏と同心協力して嬢が宿志を達せんと欲するものなり。

<註1> ミス・アッカマンは万国婦人矯風会が派遣した第2回の世界巡回員。第1回巡回員は明治19(1886)年来朝したレビット夫人であった。
<註2> 佐々城豊寿は婦人矯風会創立者の一人。仙台出身、文筆に長ず。
<註3> 潮田千勢子は信州飯田藩の家老の娘、日本婦人矯風会創立者の一人で、短い期間ながら会頭ともなった。慶応大学総長であった潮田江次は、その孫にあたる。
<註4> 東京禁酒会は明治23(1890)年11月の総会において、安藤太郎を会長に、根本正を副会長に推した。
 
※以上、「日本禁酒運動の八十年/東京禁酒会1890-1970」(小塩完次著)より


 レビット、アッカマンらを派遣した「万国婦人矯風会」とは米国の "Woman's Christian Temperance Union (WCTU)" のことで、基督(キリスト)教婦人矯風会、婦人キリスト教禁酒同盟などと邦訳されている団体です。
 
フランシス・ウィラード( Frances Willard )  WCTUは1874年オハイオ州で誕生しました。当初は禁酒運動を主な活動としていましたが、第2代会長のフランシス・ウィラード(Frances Elizabeth Caroline Willard / 写真左)の時代により幅の広い取り組みを始めました。"temperance" とは「禁酒・節酒」という意味の他に「節制・自制」などという意味があり、以降、婦人参政権、女性のための「避難所(シェルター)」の設置など様々な取り組みをし、前記レビット夫人の来日によって日本では悪い風俗を改め直すという意味の「矯風」という言葉をあてて明治19(1886)年に東京婦人矯風会が設立され、これは日本基督(キリスト)教婦人矯風会として現在も幅広い活動を展開しています。

 この東京婦人矯風会のメンバーであった潮田千勢子、佐々城豊寿、そしてアッカマンらの尽力により明治23(1890)年3月28日に「東京禁酒会」は発会式を迎えました。創立当初は会長を置かず集団指導体制で中川永輝(通信書記)、池田次郎(記録書記)、土井操吉(会計)、潮田ちせ(女子部通信)、佐々城とよ寿(会計)などの役員を定めて、11月になって会長に安藤太郎、副会長に根本正が就任しました。

クララ・パリッシュ( Clara Parish )  明治29(1896)年にはWCTUよりクララ・パリッシュ(Clara Parrish / 写真右)が来日し、全国各地の禁酒会の同盟組織を作る取り組みが始まりました。明治30(1897)年には「日本禁酒同盟会」組織のための準備会(協議会)がパリッシュ、矢島楫子、本田正子、伊藤一隆、鵜飼猛、林蓊、津田仙、伊藤専三郎、安西唯三郎らによって組織され、さらにジュリアズ・ソーパル、(ミス)M・A・スペンサー、根本正、尾藤徳義、美山貫一、コーツ、(ミス)デントン、伊藤恭三、三谷民子、安藤太郎らとともに委員会が設けられ、全国組織設立が具体化することになります。

◆日本禁酒同盟会の発足

 明治31(1898)年10月1日、東京九段美以教会において日本禁酒同盟会の発会式が行われました。

会長: 安藤太郎
総副会長: 伊藤一隆、津田仙、J・ソーパル、根本正
副会長: 林蓊 ※他、各地の禁酒会長
記録幹事: H・コーツ、鵜飼猛
会計幹事: 角倉賀道、安西唯三郎
理事員: J・コーサンド、H・タムソン、C・ガースト、S・タッピング、B・チャペル、E・レビット、小林光泰、尾藤徳義、二宮安次、小方仙之助、砂田乙治、古沢繁次郎、美山貫一、原誼太郎、青木堅治、石井甲次郎

根本正  安藤太郎は東京禁酒会の会長とともに日本禁酒同盟会の会長も務め、大正9(1920)年に(財)日本国民禁酒同盟となるまで根本正(写真右)らとともに日本の禁酒運動を率いていくことになります。
 
 根本正は明治12(1879)年28歳の時に渡米し、苦学して小学校、中学校、そしてバーモント大学を卒業し、帰国した後には衆議院議員として未成年者喫煙禁止法、未成年者飲酒禁止法の立法化などに尽力しました。





1905(M38)年銀座教会幹部写真 この写真には発足間もない東京禁酒会の幹部が多数おられる。

                                   
    會澤義雄根本正顕彰会会長提供

     写真の方々
     美山貫一中国人教会のギブソンから受洗。安藤太郎をキリスト教に導いた。熊本バンドの一人第2代牧師 禁酒活動に熱心
           
   安藤太郎ハワイ総領事、文子夫人が進物の酒樽を割り、太郎は禁酒を宣言。 東京禁酒会会長から初代日本禁酒同盟 会長
            ご夫妻に子供はなく、宅地私財を捧げて安藤記念教会が誕生した。


    根本 正: 未成年者飲酒禁止法
成立の立役者 初回国会提案から22年を要した。 茨城県選出の衆議院議員

     津田 仙
 青山学院の創立者 この写真に見える宣教師Julius Soper から受洗した。津田梅子は津田塾大学を創立。

   矢島楫子
日本基督教婦人矯風会の会頭 東京禁酒会以降 現在に至るまで当同盟と禁酒/酒害防止運動を共にしている。

   小林富次郎
ライオン歯磨(株)の創業者 実業人キリスト者と言われ、同氏の葬儀活動写真は、日本で最も古い記録とされる。

 

       1912(M45)年10.12 創立間もない日本禁酒同盟 大会の模様  

                                                  『銀座教会百年史』より国会図書館蔵

これら2枚の写真は現存する最も古く、日本禁酒同盟につながる草創期の写真である。


伊藤一隆・富子夫妻と矢島楫子
 
左から伊藤一隆、矢島楫子、伊藤富子
 伊藤一隆は札幌農学校(北海道大学の前身)の一期生で、クラーク博士との禁酒誓約文を起草しました。開拓使、北海道庁などで水産業の改良に尽力するとともに、禁酒運動にも多大な貢献をしました。(左写真は伊藤一隆・富子夫妻と矢島楫子)

◆(財)日本国民禁酒同盟へ

長尾半平  大正9(1920)年、「日本禁酒同盟会」(安藤太郎会長)と関西に起こった「国民禁酒同盟」との合同が妥結し、財団法人格を取得して「(財)日本国民禁酒同盟」となりました。新事務所は東京神田表猿楽町のYMCA同盟会館に開設され、理事長には安藤太郎に代わって長尾半平(写真左)が就任しました。

 
ショウ氏送別会‥‥昭和2年6月1日
 
 前列左から、伊藤富子、ガントレット恒、マーク・ショウ、ミセス・ショウ、ミセス・D・ショウ、守屋東、谷島千代子、中列左から、向後縫之助、松村吉太郎、根本正、長尾半平、伊藤一隆、小塩完次、永田基。

 
ヘニガー夫妻送別会‥‥昭和9年5月7日
 
 前列左から、ガントレット恒、E・C・ヘニガー、メイ・ヘニガー夫人、久布白落実、中列左から、小塩完次、生江孝之、千本木道子、守屋東、金森すみ子、長尾半平、諸岡存、後列左から、ウォルサー、G・ボールズ、オウレル、永田基。


紀元二千六百年を記念して
 
紀元二千六百年を記念して盛んな同盟全国大会
(東京・青山の日本青年館において昭和15年5月3-5日)


◆(財)日本禁酒同盟へ

 第2次世界大戦で戦災に遭い解散状態となっていた日本国民禁酒同盟は1949年、東京・本郷中央公会堂の武藤健牧師の援助を受けて公会堂に一室を与えられ、「(財)日本禁酒同盟」と改称し再び活動を開始します。

安藤記念会堂に集って‥‥同盟復興総会(昭和24年4月5日)
 
 中列左から、伊藤信一(横浜)、戸谷清一郎(群馬)、竹上正子(矯風会)、村上幸多、生江孝之、守屋東、小山三平(小諸)、益富政助。


顧問会‥‥第一ホテルにて(昭和33年9月10日)
 
 右から、椎尾弁匡、守屋東、片山哲、清瀬一郎、高橋誠一、木内キヤウ、賀川豊彦、小塩完次、赤松常子、河田茂。




◆主な参考資料
・「日本禁酒運動の八十年/東京禁酒会 1890-1970」(小塩完次,(財)日本禁酒同盟,1970)
・「安藤記念教会七十年史」(安藤記念教会七十年史編集委員会編,日本キリスト教団 安藤記念教会,1987)
・「アメリカ禁酒運動の軌跡」(岡本勝,ミネルヴァ書房,1994)
・「銀座教会百年史」
・「根本正顕彰会」會澤義雄会長私信 銀座教会幹部写真提供

 

  

一般財団法人 日本禁酒同盟
Japan Temperance Union