信条としての禁酒
 
―― 長野県南安曇郡堀金村の青柳總一氏に聞く ――


加藤純二

はじめに
 
 青柳總一氏は日本禁酒同盟の会員であり、小塩完次元理事長とは戦前から長い親交があった。完次氏が死去したあとも一貫して、同盟への会費納入や寄付を義理堅く続けて下さっている。事務局も私も是非じかにお会いしてお礼を申し上げ、また、青柳氏の若い頃の禁酒運動のお話をお聞きしたいと思っていた。
 


 
青柳總一氏(前)と加藤(後)
 
 青柳氏は地元の堀金村、豊科町や松本市に宮城県志田郡鹿島台町(当時、鹿島台村)の元村長・鎌田三之助翁を招いて講演会を開いたり、地元でガリ版印刷の「さんそん(注1)」を発行し、翁の寄稿文を掲載していた。宮城県では鎌田三之助と言えば、「わらじ村長」として有名で、品井沼の干拓や村の貧乏財政からの脱却などに尽力した人物である。宮城県下のいくつかの小学校では地域学習の一つとして、品井沼の干拓地や干拓のために掘られた明治潜穴(注2)、「鎌田記念ホール」にある「草鞋村長鎌田三之助展示室(注3)」を児童に見学させている。鎌田三之助は若い頃はともかく、酒を一滴も飲まない熱心な禁酒運動家であった。しかし有名な干拓事業に隠れて、禁酒運動家としての翁の一面はあまり知られていない。
 

 
鎌田三之助翁
 
 青柳氏は翁の講演に終戦直後の20歳代に接し、講演で聞いた翁の禁酒をはじめとする生活信条を自らの信条として現在も実行されている。平成17年4月10日の日曜日、私は事務局・小塩政子さんと共に堀金村のご自宅でお話を伺うことができた。ここに青柳氏のお話、特に鎌田三之助翁を招いた時のお話をご報告し、日本禁酒同盟の今後の活動の参考にしたいと思う。

1.青柳總一氏が禁酒運動を知ったきっかけ
 
 日本禁酒同盟がある三鷹から中央線で特急あずさに乗車すると2時間45分で松本駅に着いた。私事ではあるが、私は高校時代の3年間、松本市で過ごした。一昨年、映画化された「さよなら、クロ 日本一幸せな犬の物語」の野良犬クロがまだ無名で、校舎の内外をうろついていた時代である。クロが仮装行列に引っぱり出された文化祭は、私は別のクラスにいて仮装行列に担任の先生を引っぱり出して一生懸命だった。松本駅の駅舎は昔とあまり変化がないようだった。
 
 松本駅には青柳氏の娘さんである好美さんが来て下さり、車でご自宅まで運んで下さった。その途中、「貞享義民館」という江戸時代初期に処刑された一揆首謀者たちの記念館が見えた。堀金村は大糸線の豊科駅に近く、そこから大町方面へ二つ先の駅が穂高町で、そこには「碌山美術館」があり、堀金村役場の近くには「臼井吉見文学館」が見えた。臼井吉見著『安曇野』(注4)の舞台、つまり明治・大正期の禁酒運動の舞台がまさにこの周辺なのだ。青柳氏のお宅は堀金村の山沿いの田多井というところにある。車が山に近づけば近づくほど、雪をいただいた常念岳は大きくせまってくる。到着した青柳氏のお宅の隣には、建てて百年以上という茅葺きの農家の建物が残っていて、あたりは一面にゆるやかな傾斜地で、リンゴなどの果樹園が広がり、新緑の季節を告げる桜が五分咲きの頃である。ご自宅と古い家の間にはヒノキの大木があり、強い風にゴウゴウと音をたてていた。
 
 青柳氏は満80歳。腰は少し曲がっておられるがお元気で、考えながら、おだやかに話をされた。青柳氏は7人兄弟の長男として隣に残る家に生まれた。父は肺結核で47歳で早世したので、家督として農業を継ぎ、弟や妹の子供たちの面倒をみる立場にあった。また生来、性格が「物好き」で、妹の子供や近所の子供たちを自宅に集めて、遊ばせたり、お話を聞かせたりしていたという。
 
 たまたま近所に救世軍に入っていた人がおり、その人から禁酒の話を聞いたのが禁酒運動の存在を知った最初であった。すでにその頃、日本は満州事変から太平洋戦争へと進みつつあり、思想統制が強化され、キリスト教に対する弾圧もあった頃である。しかし安曇野に広がったかつての禁酒運動は根強く残っていたと言える。青柳氏は17,8歳の頃、小塩完次氏と文通したという。

2.出征
 
 青柳氏は話の年代を確認するため、小さな軍人手帳を探して来られた。それによると、昭和19年9月1日に召集されて、世田谷区にあった学校の校舎に行き、そこに1週間いた。冬服を支給されたので不思議に思ったという。兵隊として下関から船で朝鮮に渡り、貨物列車で満州、北京を経て、南京に行き、そこから揚子江を船でさかのぼり、武昌に着いた。そこからさらに奥地へ行き、教育を受け、前線へ出発した。しかしその途中で回帰熱にかかり、武昌郊外の病院に収容された。そこで天皇のラジオ放送があるというので聞いたが、雑音のため何を言っているのか分からなかった。終戦と知らされ、武装解除されたが、中国人からは暴行を受けることもなく親切に扱われたという。
 
 昭和21年1月7日に上海を出航し、14日に博多に着いた。病院で一緒に入院していた友人は日本に着いてまもなく死んでしまった。「さんそん」7号にはこのときの体験を記した「忘れ得ぬ人々」という青柳氏の書いた文がある。武昌の病院で日本から来ていた看護婦さんたちに親切に看護されながら、名前も住所も分からず、お礼を言うことの出来ないのが残念でならないこと。その暑さと「人から親切にされる程有難く忘れ得ぬことはない」と書かれている。青柳氏は大正13年12月の生まれであるというので、帰郷の時、つまり戦後の再出発は満21歳になったばかりの時である。

3.戦後の貧しい時代
 
 「物好き」の性格と自認する青柳氏は青年団の活動や地域の経済復興や生活改善運動などに熱心だった。当時、進駐軍がナトコ映写機(注5)と呼ばれた映写機を貸し出し、日本人の教育のための一種の教育的映画と引き続いて劇映画の上映会を各地で行った。郡でその映写機を1台買い、借りた1台と計2台の映写機を用いて、学校の体育館や公民館で、映画が1巻終わると時間をずらして別の会場までフィルムを運んでもらって上映したりした。
 
 戦前、文通したことのある日本国民禁酒同盟(注6)の事務局長であった小塩完次氏からさそいを受け、山梨市で開かれた講演会へでかけたのが完次氏に直接に会った最初であった。その後、堀金村へ完次夫妻が来て、三田(地区)で青年団員に講演をしてもらったり、完次氏の妻・とよ子さんが青年団の女子部員にパンの作り方の講習会をやったりした。青柳氏は夫妻を家に泊めたり、リヤカーで荷物を運んだりした。このような会合を重ねるうち、今度は鎌田三之助翁が完次氏とともにやってきた。
 
 講演などを終えて帰る時、豊科駅で撮影した記念写真の説明には昭和21年8月8日と記されている。翁は文久3(1863)年1月13日の生まれなので、翁はこの時、満83歳である。40年間以上も着続けたという背広を着ていた。講演会で翁が何を話したのか、その内容はよく覚えていないという。しかし、鮮明に覚えているのは、家に泊まったとき、翁に「トイレはこっち」と言ったら、「すまん、すまん」と言われたこと。また、お茶を出した時、翁が茶椀を両手で上に捧げて「ありがとう」と言って飲んだことだという。えらぶったところのない、木訥な人であった。小中学校の講堂や部落ごとの公民館で青年団の人々にお話をしてもらった。青柳氏が、堀金村のさらに奧の開拓部落に満州からの引揚者がいて、「満州にいたとき鎌田三之助翁が来て、お話を聞いたことがある」と言っていると話すと、翁はその人に会いたいと、わざわざその山間の家まで行ったという。
 
 二度目に来てもらったときには(「さんそん」8号によると、昭和23年10月22日から5日間、翁と完次氏が一緒に来た。)、最後に松本の今井村で講演会を開いた。その講演会が終わって、いろりで向かい合って翁と話した時が、最後の別れであったという。その約2年半後、昭和25年に翁は満87歳で死去している。
 
 この話をお聞きしていたとき、自家製のソバをごちそうになった。お茶や食事を運んでくれた妻のみさ子さんは、今井村で開かれたその講演会に行ったという。青年団員を中心に200人くらいの人々が集まり、男女は半々くらいであった。「節約の大切さ」といった話だったと記憶しているという。説得力のある話で感動したが、詳しい内容は忘れたという。ともかく物もテレビもなく、食べ物も紙も娯楽も少ない時代だった。
 
 青柳氏は専業農家の長男として、養蚕を長くやり、この堀金村で養蚕は最後には二軒だけになるまでやった。この地方では取り扱う業者がなくなり、繭を群馬県まで送った。今はリンゴ、ブドウ、洋ナシなどの果樹を作っている。
 
 保護司の仕事は村長から頼まれて、当時、成人と未成年者を扱う二種類の保護司があったが、青柳氏は25歳から未成年者を扱う保護司を始めた。保護司の仕事は農業の傍ら長くやった。平成10年4月、勲5等瑞宝章をいただいたが、受けただけで、「自分は祝い事をしてもらうのはいや」で、地元での祝賀会はやらなかったという。

4.禁酒の信条
 
 選挙には酒がつきもので、議員にはならなかったし、他人の選挙運動にも出なかった。農協や公民館の役員としてもいろんな会合には出たが、杯には一度も手をつけなかった。そのうち自分には酒を注ぐ人はいなくなったという。その話を聞いた奥様が一言、「酒を飲んで帰ってきたことがなく、本当にそれを偉いことだと思っていました」と感想を述べた。当時は、酒を飲み過ぎて道路に寝ている人がいたり、会合に酒は付き物で、それを目的に集まる人々もいて、自分はそれを良くないことと思った。他人に禁酒を求めることはしなかったが、自分は禁酒をずっと実行した。それには20歳代に聞いた完次氏や鎌田三之助翁の話を自分の信条として実行したためである。保護司の仕事をしていて、酒の力をかりて罪を犯した人や、飲酒運転で事故を起こした人を多く見たこともある。禁酒を続けて、酒の害を受けなかったことは自分にとってとても良かったと思っている。しかしこれを世間の人々に広める運動というものは難しいことだろうと思うと述べた。お話をうかがった部屋の欄間には、翁が泊まったとき書いてくれたという書「勤倹力行」が表装して飾られていた。「為青柳君 八十四翁」と書かれている。豊科駅で翁や完次氏、友人らと撮影した写真も額に入れられて掛けてあった。驚いたことに、雑誌「さんそん」に寄稿した翁が毛筆で整然と小さな字で書いた原稿をいまだに青柳氏は大切に保存されていた。
 


 
「勤倹力行」

5.帰路に思ったこと
 
 ご夫妻の写真を撮らせていただき、家の外でも記念写真を皆で撮影した。その時、ふと古い方の家の玄関の表札に並んで「日本国民禁酒同盟」の金属製のプレートが掲げられているのに気づいた(写真)。また娘さんが車で我々を豊科駅まで送って下さり、青柳氏も駅まで同乗して、あたりの風景を説明してくれた。駅からもう一度、常念岳を見た。今度は雲に隠れていた。高校時代、この山脈のさらに奧にある槍ヶ岳に登った時のことを思い出した。急に天候が変わって独標というところから引き返した。その数年後、高校の後輩らが同じ場所で雷に打たれ、数人の死者を出したことがある。
 


 
「日本國民禁酒同盟員」の表札
 
 駅で青柳氏と娘さんとお別れした。特急に乗車すると東京までは乗り換えなしである。東北新幹線ばかり利用している今の私には、特急電車でも遅くてもどかしく感じられた。私の郷里の長野県飯田市から飯田線、中央線、東北線を経由して仙台市に着くまでは、昭和38年頃、夜明け頃に家を出て着くのは夜だった。しかし戦後まもなくの交通事情はどうだっただろうか。まだ鈍行しかない時代、東北線の鹿島台駅から東京に行くだけでも、忍耐と体力がいる。それから中央線に乗り、松本駅で大糸線に乗りかえて豊科駅、またそこからバスはなかった。しかもさらに引揚者に会いに山奥の開拓部落まで出向いたのだ。それは死去する数年前のことである。想像を絶する翁の信念の強さを思い知らされた。役場の反故紙に毛筆で書かれた寄稿文に誤字はほとんどなく、翁の青柳氏に対する丁寧さと努力にも驚いた。
 
 列車の中、政子さんと感想や今後の禁酒同盟の活動などを語り合い、同盟の活動にとって記念すべき安曇野行きはこうして終わった。

注と参考資料:
 
(注1) 昭和22年9月創刊、長野県南安曇郡三田村・親和倶楽部発行。昭和24年12月1日発行の12号までを、日本禁酒同盟が保管している。印刷兼発行人・青柳總一。ほぼ毎回、鎌田三之助の寄稿文が掲載されている。
(注2) 明治潜穴は品井沼の水を松島町高城川に排水するため掘削されたもので、工事開始は明治40年12月、完成は明治43年12月。現在、その取水口には「明治潜穴公園」がある。鎌田三之助は32歳で県会議員、40歳で衆議院議員、明治42年2月に鹿島台村長になり、10期38年間村長を勉めて昭和21年11月、84歳で退職した。「禁酒新聞」昭和25年6月1日発行、第292号によれば、翁は急性肺炎で同年5月3日に死去した。
(注3) 「鎌田記念ホール」はJR東北本線鹿島台駅より東へ徒歩10分の所にあり、中に「草鞋村長鎌田三之助展示室」がある。町のホームページには「江戸から昭和にかけての約300年間、品井沼の氾濫で162回も洪水に見舞われた鹿島台。展示室では、明治から昭和にかけて無給で村長を務め、村の発展に全国を奔走した鎌田三之助の生涯をはじめ、品井沼の自然や干拓など町の歴史を知ることができる」とある。
(注4) 筑摩書房、1970年刊行。相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、井口喜源治、荻原守衛(碌山)ほか、平民社、パンの会などの多彩な登場人物によって織りなされる明治中期から昭和の敗戦後までの激動の日本を描いた大河実話小説。安曇野の養蚕農家や製糸業家を中心とする禁酒運動の様子が詳しく記されている。
(注5) Natco映写機:『みやぎ百科辞典』によると、昭和23年から日本民主化のために連合軍総司令部が民間情報教育局映画とともに各県に貸与した。昭和28年、映写機は日本政府に譲渡され、各県に貸与、後に払い下げられた。16mmフィルムライブラリーは宮城県の場合、県立図書館に置かれ、県職員が町村を巡回して上映した。
(注6) 大正8年、日本禁酒同盟から関西の仏教系の会員を中心として「国民禁酒同盟」が独立した。翌年末、団体としては宗教色を除くことで両者が再び合同して「日本国民禁酒同盟」を結成した。

参考資料:
 
(資料1) 伊藤博著『廿八年の草鞋村長』昭和18年9月、共栄出版社。(70ページ。昭和11年11月、憲政自治運動の一資料として作られ、20万部が頒布され、その再刊。)
(資料2) 松田武四郎著『わらじの跡』昭和18年1月、京文社書店発行。(323ページ。行脚感話篇、人物事業篇、講演論稿篇、岡山県児童感想文に就いての4篇からなる。)
(資料3) 京野助太郎編集『今尊徳鎌田三之助翁』昭和18年6月、合同新聞社出版部発行。(岡山県下を講演行脚した時の講演内容をもとに作られたもの。)
(資料4) 故鎌田三之助翁頌徳会編集兼発行『鎌田三之助翁伝』、昭和28年6月。(翁没後、銅像建立とともに刊行された伝記。)
(資料5) 鹿島台町史編纂委員会編集『町史わが鹿島台』志田郡鹿島台町発行、昭和45年。(この古い町史の方が、その後の新しい町史より鎌田三之助や品井沼干拓については詳しい。)

 

  

一般財団法人 日本禁酒同盟
Japan Temperance Union