論説  適量なら良いのか
 
禁酒新聞 平成11(1999)年11月1日757号より


小塩玄也

 世の酒飲むほどの人達は口々に「適量」と言い「程々に」と言う。しかし、それがそれ程に「適量」であり、その「適量」が真に適量であるならば、世の中に、アルコール性肝疾患もアルコール性心臓疾患も、アルコール依存症も絶えて無い筈である。
 しからばその「適量」と考えるのは一体どの位か、アンケート調査によれば、それは自らの日常の飲用量に並行し、それを追認する結果になると言う。それも、こうした量は表向きのタテマエ量であって実際は更に多いのが通例なのである。
 イッキ飲みをはじめ若者の無軌道な飲み方に対して、「飲み方を教えねば‥‥」とはよく言われるところである。成るほど「適度な飲み方」は無節制な乱飲よりは良い筈である。しかし長い目で見ると、社会全体の飲酒習慣の圧力の下では、「飲み方」を教えることは結局「飲むこと」を教え、その量さえ制し得ずになり終わると言うぺきであろう。
 最近しばしば言われる「ある量までなら、飲まない人に比べ、飲む人の方が死亡率が低い」などの調査研究も、単に「適量」に理由づけをしただけの話であって、つまりは「酒飲みにとって耳寄りな調査」であり、「しかしどうも適量を守れないのが酒飲みの酒のみたるゆえん」(朝日新聞9月12日、天声人語)なのであり、要するに「適量」以上を含めて、飲むことへの応援であるに過ぎないのである。
 これら条々は要するに、たとえ「適量の飲酒」を叫び、唱導しても、結局、野放図な飲酒までをも容認するところとなり、相当の割合で過量飲酒者、問題飲酒者を必然的に生ずると言うに外ならない。

 さて、世の中には、確かに「適量」と言うべき量を実際に用いて、その効用のみに与って、当面目立った害悪も無く過ごしている人々が現実に多くいるのも確かであって、これを認めるにやぶさかではない。これらの人々は要するに「適量」を言われてこれに文字通り従い得ている人達であり、一方の過量飲酒、問題飲酒に陥った人々の犠牲において存在し得ていると言うべきである。しかしてここに指摘すぺき重要な点は、この「適量」が前提ではなくて結果として到達している「適量」である点である。従ってもし自らの「適量」体験から逸出して、「適量なら良い‥‥」などと発言したとするならば、その途端にそれは他者にとっての前提となり、右条々述べたような問題に逢着するのである。
 斯くの如く、「適量」の語にして、その字面に反して、飲用量の制限を徹底し難く、却って過量を含めての飲酒を促進するものなれば、吾人これを唱うること能わず、限り無く飲まざらん事をのみ志向し唱導せざるを得ないのである。

 

  

一般日本禁酒同盟
Japan Temperance Union