安藤太郎は(財)日本禁酒同盟の源流にあたる東京禁酒会や日本禁酒同盟会の会長を長く務め、我が国の禁酒運動の父とも言うべき存在です。以下は「禁酒の使徒 安藤太郎伝」と題して小塩完次先生(禁酒同盟元理事長)が1964(昭和39)年にキリスト教系の新聞に連載したものです。



禁酒の使徒 安藤太郎伝
 
小塩完次
 
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【キリスト教──1964(昭和39)年5月16日】

  幕府海軍の名砲士
 
  品川沖海戦で薩摩の軍艦を打破る

安藤太郎

 東京都麻生本村町の安藤記念教会は、安藤太郎翁が文子夫人の遺志により、自邸の一角に建てたものである。のちには、土地建物の全部を寄進して、福音の伝道につとめられたと承っている。──大酒豪の翁が、賢夫人の諫告に従って酒を断ち、自分の禁酒を守るばかりか、夫妻そろって禁酒運動に献身し、日本禁酒同盟会の初代会長となったことは有名な話である。しかし、若かりし日の安藤太郎が維新回天の大業に生命をかけて働いた武勇伝中の人物であること、それが一転、剣をかえて鋤となす明治開化の新政にたずさわり平和国家、文化国家の建設にひと役買っていることは、あまりよく知られていない。

 安藤は、榎本武揚らの函館五稜郭の「大脱走」に、二等見習士官で加わった人である。文子の兄で、安藤の姉とみ子が嫁いでいる重縁の間柄にあった荒井郁之助が、この海軍奉行をつとめていたということもあって、安藤はこの大脱走に加わることになったようだ。

 荒井は五稜郭の戦いの後、獄につながれたが、許されて出獄し開拓使に出仕して、開拓使学校(のちの札幌農学枚)を創立した。ここからは伊藤一隆、大島正健などが輩出し、内村鑑三、新渡戸稲三らはその第二期生である。

 安藤は、この荒井郁之助から英学を授けられ、かの岩倉具視一行の使節団に加わって渡欧、得意の英語と外交的手腕で、オックスフォード大学の新進学者たちを多数導入することに成功した。

 それが明治の国つくりに大きく貢献しているのだが、これなどは、今ではむしろ、忘れられているかも知れない。

 明治神宮絵画館に「旅順開城の図」を描いた荒井陸男画伯は荒井郁之助の令息である。画伯は、片山哲氏が安藤翁のあとを継いで日本禁酒同盟の理事長をやっていることを喜び、片山氏に安藤翁のこと、厳父郁之助翁のこと、また、かれらをめぐる維新の英雄傑士たちの群像について知っておいてほしいと、機会あるたぴに語って聞かせるのである。弁は熱烈、話は精彩に富み、陪聴した筆者は、これを聞きすてにするのはもったいないと思い、画伯の口述を原稿にまとめることにした。

 たまたま、今年は、安藤太郎が禁酒を始めて満七十七年である。後継ぎの片山哲氏がちょうど七十七才になったことも奇なる巡りあわせであろう。また、来る十月二十七日は、安藤翁召天満四十周年であり、この四月八日は、生誕百十八年の記念日でもあった。

 さて、幕府海軍の二等見習安藤太郎の初陣は、慶応三年、品川沖で薩摩の軍艦「翔鳳」を射ちしりぞけた時である。

 そのころ世情は、政治は腐敗し、物価はあがるしという不穏な状態だった。ひるひなかから悪漢が横行し、禄を失った浪人などが凶器をたずさえて良民をおどし、江戸城から大、中、小刀を持出した薩摩隼人が、市中で手当り次第に試し斬りをやる、婦女を姦する、物は盗るなど、乱暴狼藉をきわめ、町人たちはふるえあがっていた時である。

 西郷が江戸でかき集めた金子がなんと五十万両……。長谷川如是閑さんの生家三河屋幸三郎などは、被害者の随一という。

 折しも、薩摩の軍艦翔鳳が、盗んだ金品を満載して品川沖を離れようとするのを、幕府の軍艦「回天」が追っかけ、「射て!」との艦長の命で、砲士を承った見習二等安藤太郎、同じく二等三浦功が、舷面に備えつけた五十六斤砲で四発くらわせた。その一弾が翔鳳に命中、火煙に包まれた同艦は浦賀水道で行辺不明となるのである。




禁酒の使徒  安藤太郎伝  A
 
【キリスト教──1964(昭和39)年5月23日】

  慶応の軍制大改革
 
  荒井は海軍奉行、榎本は海軍副総裁

 品川沖で勇名をとどろかせた勇士が、後にキリストのしもべとなり、禁酒会の会長となったのだから、世の中はまったくわからないものである。この初出陣は慶応三年、安藤が二十二才の時である。安藤とともに翔鳳を撃った三浦は、後に海軍中将になった。

 安藤の次の戦いは、函館の大脱走にからまる宮古の海戦となるのだが、その話に入る前に、慶応三年十二月の軍制改革についてのべておこう。これで人事の大移動があり、軍制の大改革が行なわれたのである。

 江戸城内「ツツジの間」というのがその舞台で、参加した面々は勝麟太郎(安房守)、矢田堀讃岐守(これは荒井郁之助の叔父だから、安藤にとっても義理の叔父にあたる)、大久保一翁、竹中丹後守、藤沢志摩守などであった。ここで陸海軍の最高人事を決め、「総裁」制というものをつくったのである。

 当時、井伊直弼は殺されて大老は欠員になっていたので、これが、最高会議というわけだった。前にあった「若年寄」の代りとして総裁(老中格)を設けたもので、陸軍総裁に勝麟太郎、海軍総裁に矢田堀讃岐守、大久保は庶務総裁ということで、会計をつかさどることになった。このとき榎本釜次郎(武揚)が海軍副総裁となっている。

 矢田堀は非常に目をかけて榎本をひきたてた。矢田堀は、奥州桑折(コオリ)十万石の殿さま荒井清兵衛の弟だから直参の家柄だが、榎本は二百石ほどの与力の子にすぎない。それがぐんぐん頭角をあらわして行ったのだから、えらいといえばえらかったのである。

 あとで話すが、宮古海戦の花と散った勇士甲賀源吾は、最初は矢田堀の塾に入って海軍の勉強をやり、のち荒井郁之助の塾に来て士官になる勉強をした。高等数学なんかも郁之助から学んだということである。このように、矢田堀なり荒井なりは、わが国海軍の草分けともいうべき人物であった。

 勝安房が咸臨丸で太平洋を渡ってアメリカへ行ったことは有名な話である。しかし勝は、海にかけてはてんで弱く、シケに遭ったためでもあったろうが、ほとんど船室に寝たっきりで過し、ハワイ上陸もできず、クタクタになってサンフランシスコに着いたというていたらくであった。海軍には当らず、陸軍総裁ということになったのも、あるいはこういう事情があったからかもしれない。

 郁之助も、一時は陸軍へ回されて、クサッていたことがあった。

 例の渡欧使節小栗上野介が、ナポレオン三世と協約を結び、フランスがコロネル・シャノアール(のちドリュース事件のとき陸軍大臣となった)の率いる五十人の陸軍使節団をよこしてフランス流の軍制を教えることになった時、さてフランス語のできる者がいないというので、郁之助ほか三人ほどのフランス語達者が、海軍から陸軍に回されてその役をつとめさせられたのである。それがふたたび海軍にもどされ、こんどの軍制改革では、叔父の矢田堀総裁のもとで「海軍奉行」に任ぜられたのであった。

 海軍奉行というのは実兵指揮官で、いわば連合艦隊司令長官といった役どころであった。

 宮古海戦の花形を演じた回天丸の艦長に、甲賀源吾をすえたのも、じつは、荒井郁之助の任命によるものであった。

 ときに慶応四年、榎本、荒井は同年の三十三才という若さであり、安藤はひと回り若い二十三才であった。

前列右から榎本武揚、荒井郁之助、後列右から松岡磐吉、林董三郎、榎本対馬、小杉雅之進
 
前列右から榎本武揚、荒井郁之助、後列右から
松岡磐吉、林董三郎、榎本対馬、小杉雅之進




禁酒の使徒  安藤太郎伝  B
 
【キリスト教──1964(昭和39)年5月30日】

  日本で最初の選挙
 
  函館大脱走の目的は失業者の救済

 「他人の悪を語る勿れ、己れの善を語るなかれ」というのは荒井家の家訓だという。「しかし」と前置きして、荒井画伯はこう語るのである。

 「他人を攻撃したり悪口をいうつもりはないが、安藤がなぜ禁酒運動をやるようになったかを知るための背景、遠因として、維新当時の登場人物が、ずいぶん酒でひどい生活をしていたこと、あきれた乱酒の所行を演じて、大失敗をやらかしていたことも述べたほうがよかろうと思う」と。榎本武揚、黒田清隆など偉い人物で出世もしたが、酒ではとんでもない失態を演じ、まきぞえを喰った安藤は、その尻拭いに、ほとほと閉口したひと幕もあったのである。

 さて、榎本、荒井らが「開陽」以下八隻の軍艦を失敬して函館に脱走し、五稜郭に「仮政府」をたてたという一件だが、世間ではこれを面白おかしく噺したてて「北海道共和国樹立」などといっている。しかしこれはとんでもない間違いだ。そんなムホンを企てたわけでないことはかれらが朝廷に奉ったたびたびの嘆願書にもちゃんと書かれている。

 徳川八百万石が六十万石にされたのでは、旗本八万騎がやっていけようはずがない。函館への大脱走は、この大量失業者がたってゆけるようにするにはどうしたらよいかと考えた末のできごとであった。「ハワイをとってしまうがよい」と建策してくれるオランダ領事なんかもあったのだが、まずエゾ地を開拓してお国の安泰を図り、北門の守りを固めようという趣旨にほかならなかったのである。

 それにしても「仮政府」というのは、いかにもハデで大げさのようである。しかしそこは新進気鋭の連中のやることであるから、こういう表現をとったのもうなずけないことはない。安藤や荒井には叔父に当る矢田堀の兄の成瀬善四郎が、アメリカ大統領からもらってきていた米国の建国の歴史や法律文などをかつて読んで知っていたということもあった。この「仮政府」は、このアメリカの歴史と法律を手本にしたもので、亀之助(十六代将軍家達)の来るまで、ちょっとした政治機関を設けておこうという考えのもとにつくられたものに過ぎなかったのである。

 しかし、そのやり方はずいぷん思い切った新らしいもので、函館の弁天砲台に、士官以上の者が集まって選挙をやり、入札(投票)で総裁以下の役割を決めた。これが日本で行なわれた「選挙の最初」であるといわれている。

 投票の結果、榎本武揚が総裁、松平太郎が副総裁、荒井郁之助が海軍奉行、大鳥圭介が陸軍奉行に選ばれた。以下函館奉行に永井尚志(玄蕃)、開拓奉行に沢太朗左ヱ門という顔ぶれだった。票数をみると、総裁では榎本が百五十五票で圧倒的多数を占めているが、これは実は、榎本以上に荒井に入っていた票を君子仁といわれていた荒井が、そっと榎本にゆずったからだという説もある。

 ついでながら、成瀬善四郎について述べておこう。彼は外国奉行組頭として、万延元年ホーハタン号に乗って、新見豊前守たちの使節の随員として、アメリカに渡った人である。このときはパナマへも行き、そこから鉄道で、ヒラデルヒヤ、ワシントンを訪れている。非常な歓待を受け、大統領からのおみやげとして、いろいろなものを贈られたが、義歯だの、香水だの、珍しいものの中に、手押ポンプなどもあった。ところが、どうしてもこのポンプが水を揚げないという騒ぎ。あれこれやったあげく、英語で書かれていた使用法の中に「呼び水」をすればよいということを安藤がみつけ出し、やってみるとどーっと水が出て、なーんだということになったという話もある。

五稜郭の平面図
 
五稜郭の平面図




禁酒の使徒  安藤太郎伝  C
 
【キリスト教──1964(昭和39)年6月13日】

  憐れ咸臨丸の最後
 
  ガタ落ちになった幕府の海軍力

 さて榎本の失態というのは、函館脱走組が着々北海道征定に成功していたころのこと、江差で陸軍と水陸共同作戦をやっていたときに、運悪くひどい大暴風に遭い、最精鋭といわれた開陽艦を座礁させてしまったことである。明治二年一月十四日のことであった。錨を三本入れたが間に合わず、蒸気をたかねばならぬのに焚いていなかったなど、かさねがさねのヘマをやり三日後に、とうとう開陽丸を転覆させてしまったのである。これで脱走組の海軍力はガタ落ちとなり、士気は疎喪して、榎本の人気も一ぺんに落ちてしまった。これというのも、やはり彼の酒好きが原因で、酒は色をよび、あろうことか艦中に女を乗せていたとのこと、士気のゆるみから、大失態をやらかしてしまったわけである。

 話は前にもどって、明治元年四月十一日、海軍卿大原俊実が徳川幕府の艦船を引きとりにやって来た。その夜、開陽以下七隻の軍艦は、品川湾を抜錨して房州舘山に逃げてしまった。これではせっかくの慶喜恭順もフイになってしまうというので、勝安房守が説得に出かけ、ひとまずこれは戻ることになって、全艦船を官軍が没収し、改めて開陽以下の四隻だけを、徳川家におさげ渡しということになった。

 血気にはやる連中も、八月までの間は、割合と静かにしていた。そのわけは、亀之助が無事に駿府におさまるのを待つということ、もう一つは、アメリカに注文していた鋼鉄製軍艦ストーン・ウォール号のくるのを待つということであった。しかしアメリカは、これを官軍の方へ渡してしまった。「甲鉄」と呼ばれた軍艦がそれである。

 もはやこれまでと腹を決めた榎本、荒井たちは、閏八月十九日夜、艦船八隻で品川湾を抜け出し、エゾ地開拓を旗じるしに脱走を決行したのである。

 開陽が旗艦で美嘉保(ママ)を曳き、回天丸は咸臨丸を、長鯨、千代田丸(ママ)、蟠龍、神連(ママ)は自力で進むという運行計画で、威風堂々出かけたまではよかったが、房総沖で思いがけぬ大暴風に襲われマストは折られ、カジを失なうという散々な目にあい、釜石、宮古で修理したりして、ようやくのことで、函館へたどりついたのである。

 ここに憐れをとどめたのは、かの太平洋横断ナンバー・ワンで名をあげた咸臨丸であった。難破して伊豆の沖合まで漂流したが、とうとう美保の松原の砂浜に乗りあげてしまうのである。責任を負って、艦長小林文治郎(のち荒井郁之助のあとを次いで第二代の気象台長となる)は、はや馬で駿府にまかり出て罰を待ち、謹慎‥‥。そうした中に、大村藩士の無法者たちが、同艦の乗組員を襲撃して死傷者を出すなどの不祥事件が起り、副長前川弁蔵(これは若いが惜しい造船の専門家だった)は、今はこれまでと、咸臨丸の機関部に火を放ち、木っ葉みじんに自爆してしまったのである。

 このとき清水次郎長が出て来て、賊軍としてかえりみられない将士たちの死体が、あげ潮で浜にうちあげられてくるのを、手厚く葬った。これで次郎長の名はいっぺんにあがって、世に知られるようになったのである。このことは小笠原長生の名文にも出ているところである。義侠心からとはいえ、赤十字のような働きをやったわけだ。

 こんな有様で、幕府方の海軍力はガタ落ちとなり、ほとんど勢力半減という散々な状態であった。それにもかかわらず、南エゾ地占領は一応成功をおさめていたのである。

暴風雨の中を行く咸臨丸
 
暴風雨の中を行く咸臨丸




禁酒の使徒  安藤太郎伝  D
 
【キリスト教──1964(昭和39)年6月20日】

  脱走組の奇襲作戦
 
  フランス士官から白兵戦を習う

 翌年一月の半ば頃には、榎本らは函館市内で金を撒くという景気のよいこともやり、仮政府のできた祝砲百一発を打つやら外国使臣を招いて、艦上で大パーティをやるやら、派手なこともやっていた。しかし、このさなかに、榎本のヘマで虎の子のように大事にしていた開陽を江差で失なうという椿事も、しでかしていたのである。

 そうこうするうちに細作(スパイ)の注進で、官軍の艦隊が討伐にやってくるということがわかった。有栖川宮熾仁親王を大総督にたてて、遮二無二討伐の師を出すというのである。

「決してムホンを企てるのでも賊軍となるのでもない。禄を離れた将士の立っていける方途を講ずるとともに“北門の守り”を固め、そのためのエゾ地開拓をやらせて下さい」

 と、これまで二度、三度嘆願書をたてまつったのだが、討伐軍をくり出すというのでは、その嘆願の趣旨は、少しもおとりあげにならないというわけである。そうなれば、武門の習いとして、これに応戦するのはやむを得ないことであった。

 ところが、応戦するといっても、海軍力はガタ減りに落ちているのだから、津軽海峡をやくして、制海権をおさえるということができない。たった一つできることは、宮古まで出ていって、奇襲をかけ、あわよくば、「甲鉄」を分捕って、落ち目にある艦隊力を回復しようということであった。

 この一策を案じ出したのが甲賀源吾で、「回天一せきでもやってのける」と献策した。

 沈黙果断の荒井郁之介も「いかにもそうだ」と賛意を表し、榎本と諮って、この作戦を決行することとなるのである。

 さて「甲鉄」を旗艦として、春日、陽春、丁卯の四隻の軍艦と、飛龍、豊安、戊辰、晨風の四隻の運送船とが艦隊を組み、肥前藩士増田朋道(虎之助)が艦隊司令長官となって、三月九日品川を抜錨、威風堂々と函館めがけて北上、賊軍征伐に向かった。

 これに対して脱走組は、甲賀源吾のカンで、きっと宮古に寄港してひといきいれるに相違ないから、そこを襲えとばかり、函館から南下した。

脱走組に加わつたフランス士官たち
 
脱走組に加わつたフランス士官たち

 フランス士官で幕府の海軍教官だったニコール、コランの二人と助教だったクラトウも「私たちも加えて下さい」といい、この海戦に加わっている。

 余談だが、このクラトウが後に築地で、ホテル・メトロポールというのを開いて、レストランを兼ねた親方に納まっており、そのじぶんの雇人の木村というのが、今日の「パンの木村屋」を築いたのである。

 ところで、当時の軍艦では、艦砲の撃ち合いもやるにはやるが、いよいよとなると、敵艦にピタリと乗りつけ、躍りこんでいって白兵戦をやって勝負をつけるというのが奥の手だった。これをやろうというのが甲賀の計画で、そのやり方を随分と練習し、ニコールたちからも方法を伝授されている。そのことは、回天乗組の二等見習士官だった安藤太郎の「宮古戦記」に次のように書かれている。

 「これよりさき、朝廷において、すでに征蝦の議決せるを聞き、仏海軍士官仁古留、および砲士クラトウの二人、回・蟠二艦に来り、日々襲入の探練、および海砲の運術等すべて襲入に関するもの、ことごとく教授せり、余もまた従って二艦に往来す」




禁酒の使徒  安藤太郎伝  E
 
【キリスト教──1964(昭和39)年7月4日】

  海の上の一騎討ち
 
  集中砲火を浴びて破れた“回天”

 いよいよ三月二十四日未明、宮古湾を襲って、この襲撃が始まるのだが、もともと外輪のある回天を甲鉄の横腹にピタリとくっつける操船がうまくゆくはずはなく、いっときは寝耳に水でうろたえていた官軍側だったが陣容をたて直したとなると多勢に無勢でどうにもいけない。単騎おどりこんだ回天一隻を、官軍の艦船が包囲して集中砲火を浴びせる段となると、自ずから勝負は決した形となった。

 最初のうちは、新撰組の勇士が抜刀して躍りこもうにも、回天の艦首が甲鉄の舷側よりも高いということもあり、また、気は逸っても、陸の勇士では海軍ほどには機敏な行動に訓練されていないということもあって二人と並んで回天に飛びこめず一人ひとり狙い討ちにされて、次々にたおれるという場面もあり、回天の五十六斤砲が敵艦に命中弾をうちこみ、大火煙を起させるという手柄もあったが、脱走組の後半戦は散々な有様だった。

 回天艦長の古賀は、すでに二弾をうけ、屈せず指揮をとっていたところ、第三弾でコメカミをうち貫かれ、三十一才を一期に宮古湾に散り、ニコールは左大腿部をやられ、安藤太郎も右腕に負傷して、艦長室に担ぎこまれるという結末になった。

 この中にあって、沈着な荒井郁之介が無傷であったことは、奇蹟ともいうべきであった。いまはこれまでと、回天は荒井の指揮で引き退り、函館へ引きあげて行った。脱走組の完敗である。

 安藤あたりは、まだ地位が低かったため、函館の現地で一年ほど牢に入れられただけで早く赦免となったが、榎本、荒井、大鳥らは、江戸に送られて獄に投ぜられ、二年八カ月の激動期間を、辰の口の糺問所で、獄中生活をすることになる。

 西郷(隆盛)らは、榎本、荒井らの匠魁は首をはねよと強硬に主張し、これを助けよという黒田清隆と激論をたたかわせた。

「そんならオレの首をハネろ」

「よし、首を斬ってやる」

 と詰め寄られて、これにはさすがの黒田も降参したというひと幕もあったが、とにかく、

「どうしても殺してはいけないこれら立派な人物を、明治開化の新政に役立たせなくてはいけない」

 という黒田らの主張がものをいい、明治五年一月、榎本、荒井、大鳥らは赦免されて出獄、間髪を容れず、新政府に起用されて、ツルギをかえてスキとなし、文化的、平和的貢献を為すに至るのである。

 さて、御維新を迎え、安藤は外交官としての生活を始めることになるのだが、この外交官生活で、さまぎまな酒害を見せつけられ、それがもとになって、安藤は日本の禁酒運動の父となるのである。酒の上と笑ってすませないことが、国際舞台に乗り出した安藤の上に次々と起ってきたのである。

宮古湾の回天と甲鉄の戦争
 
宮古湾の回天と甲鉄の戦争




禁酒の使徒  安藤太郎伝  F
 
【キリスト教──1964(昭和39)年7月18日】

  恐るべきは酒の害
 
  酒乱の黒田清隆に“難儀致し…”

 「十七たびの天長節を海外で過ごした」のが安藤太郎、文子夫人夫妻の外交官生活であった。

 香港総領事をやっていたときのこと、副領事の平辺二郎(文子の弟)に留守をまかせて、しばらく本国へ帰朝している間に語学に秀で、派手好きで活動家であった平辺は、駐在の各国外交官を招いて大宴会をやったり酒池肉林のぜいたく三昧をやらかしたりして、たちまちのうちに、官金一万円ほどを消費してしまった。

 兄の郁之助は、何もいわないで、二百五十円の月給のうち、自分の生活は五十円に切りつめあとの二百円ずつをあてて、平辺のあけた官金のアナを埋めて弁償した。彰義隊の残党なんかが、二十人もゴロゴロ居候をしていたのを、事情をいって他家に頼んで預ってもらうなど、生活を縮める苦心は並たいていではなかったが、一門の責任として、その尻拭いをやった。このときも、文子は、外交官の妻として、さてさて恐るべきものは酒の害なるかなと痛感した。

 明治十七年、安藤は上海総領事となっていた。そこへ、元老院議官だった田辺太一から手紙がきて、

「黒田清隆伯が天皇陛下ご名代として行くからよろしく頼む」

 といってきた。もちろん、外務省からは、公文でその旨が伝えられて来た。

 天津条約が締結され、むこうから皇帝の代理の大物がやって来たので黒田はその答礼に派遣されたというわけである。時の北京駐在公使は榎本武揚であった。

 とどこおりなく清国皇帝に拝謁して、任務を果たした黒田が、天津を経て上海へやってくる。安藤は手落ちのないように歓迎の準備万端をととのえ、「ホテル・ド・フランセ」を宿としてこれを迎えた。

 酒の好きな黒田は、北京で榎本と二人で飲み歩いて、あっちこっちで大醜態を演じたと伝えられている。酒と色はつきもので、ところかまわぬ乱痴奇騒ぎをしでかしたのだが、随行した大書記官の奥保鞏(のちの陸軍元帥)、小松某などが、これを諌めて止めさせるどころか、オベッカをたれ、むしろそそのかしていたとは苦々しい。

 安藤の手紙に、当時の黒田の乱行ぶりを紀して、

「酒乱のくせがありて、随分とりまきの者ども難儀致し‥‥」

 とあるが、その難儀をする番が、こんどは上海へ回ってきたのだ。

 第一流の国際ホテルで、酒の上とはいえ、田舎武士まる出しの野蛮行為をさらけ出すので、国の体面にもかかわる心配があるし、二週間も居つづけして、物要りもたいへんなので、奥の才覚で、ひとまず広業商会といって、日本人の経営していた旅館に宿更えをした。気のおけない日本館だというので、いよいよハメを外し、連日連夜飲み暮し、夜を更かしてドンチャン騒ぎをやるので、日本人の評判が非常に悪く、世間へ顔向けもならない。何とかなさらなくては‥‥、という忠告が、領事館へ舞い込む有様だった。

 そうこうするうちに広業商会の笠野マネージャーがやってきて、一通の洋簡を差出し、フランス・ホテルのマネージャーが公訴に及んだと告げてきた。公訴の内容というのは、口にするさえ汚らわしい、恥ずべき畜類同様の乱行だ。安藤は、もちまえのおおらかさで、「抱腹絶倒もの」と笑いとばしてはいるが、お話にならない破廉恥行為を演じてしまったのである。

安藤太郎翁
 
安藤太郎翁




禁酒の使徒  安藤太郎伝  G
 
【キリスト教──1964(昭和39)年7月25日】

  安藤総領事の悩み
 
  ハワイの日本人移民の悪評判

 黒田の失態というのはこういうことである。フランス・ホテルに滞在中、黒田は給仕の中国人ボーイの一少年を、酒のなせる妄念で犯し、醜聞の種を蒔いてしまったのである。

 ボーイは泣いて引き退る、銀二元を与え、翌日またぞろ二元を与えて、なんとかもみ消そうとしたが、どっこいそうはいかない。クツタビのひも一本を証拠にとられ、別の少年がベッドの傍らに立って一部始終を見ていたということで、いっかな内聞に収めることを承知せず、四の五のいうなら、国際問題として明るみに出す、委細を新聞紙上に発表すると、訴えてきたのである。

「名誉棄損、傷害補償として、弁償金二千五百ドルを要求する」

 というのが、広業商会のマネージャー笠野の差出した書簡の内容だった。

 これにはさすがの黒田も弱ってしまい、領事館へやってきて安藤に頭を下げて頼みこむ。今をときめく陸軍中将、伯爵のご名代閣下が、ショゲているので、

「気の毒千万と思い慰めておいた。すると黒田いよいよ閉口頓首。“本街道ならともかく、間道から行ったことゆえ、なおさら面目次第もありませぬ。百戦不敗のこの黒田が、支那ボーイに敗けるとは‥‥”と嘆くので、余はおかしいやら、バカバカしいやら、腹を抱えて、笑うよりなかった」

 と、豪快な安藤は述懐している。そうはいうものの、一歩間違えば国交にも障ること、そこは安藤の外交感覚と敏腕で、滞留中だった総領事館通弁のウィルキンソンにも頼み、内聞にするよう熟談の結果、千三百五十元出して話をつけた。

 表沙汰にならないで済んだことは、不幸中の幸いだったが、

「これを榎本公使に報告しなければならないのはツラい」

 と安藤は嘆じた。

 つくづく酒害の恐ろしさを痛感した文子は、

「飲めば同じこと、あなたも酒はお止めなさらなくては‥‥」

 と、強く強く、良人太郎に豪酒をやめるよう諫告するのであった。

安藤文子夫人
 
安藤文子夫人

 明治十八年、安藤太郎は四十才で、ハワイ総領事に転勤を命ぜられた。ここから奇しき摂理により、斗酒なお辞せぬ大酒飲みの安藤が百八十度転換して、「禁酒運動の父」となるのである。

 当時ハワイには、日本から多数の契約移民が出稼ぎにゆき、砂糖キビの耕地で労働していたが、せっかく得た金を、酒とバクチに費して、あげくのはてはケンカ、暴行等の乱行をはたらくので、雇主たる白人は、日本移民をもてあまし物議が絶えず、故国に送還するほかないと考えるほどになり、当事者たる安藤総領事の頭痛になやむ責任問題となった。

 明治二十年の九月三十日、サンフランシスコから郵船が入港して、一人の日本人伝道師が、フラリと領事館を来訪した。これが美山貫一で、安藤が会って来意を聞くと、美山はハリス監督から派遣せられたもので、ハワイの日本移民の悪評判が遠く米国にまで伝播し、なんとしても傍観し難いということで、その実情視察かたがた、伝導と禁酒のすすめのためにやって来たということであった。




禁酒の使徒  安藤太郎伝  H
 
【キリスト教──1964(昭和39)年8月1日】

  ハワイ禁酒事業の発端
 
  酔漢は酒瓶を打破りて悔改を表す

「ありていにいえば、余は、当時キリスト教の伝道師には、左程重きをおかず、従って美山氏の慷慨談にも耳を傾けざりし」

 と告白している安藤だったが美山が切々と説く難民救済の必要なことにはいかにもと承服しここに「日本人共済会」なるものが組織されるようになるのである。これで日本人間に大いに信頼を得た美山は、ハワイ群島を島から島へと巡回して、至るところで福音を説き、禁酒を勧めて回った。

「その結果の目覚しきことは、あたかも耳しいは聞き、おしはものいい、めくらは見るとでもいう有様にして、ここの博徒は秘蔵のサイコロをなげすて、かしこの酔漢は酒瓶を打破りて悔改を表す勢いなれば、他人は知らず当局者たる余は、取締上非常の援助を得。これ換言すればハワイ禁酒事業の発端であった」

 と、後年安藤は書いている。

 文子夫人の、たびかさなるすすめで、安藤もいよいよ酒杯をすてる決心をしていた矢先、この年の十二月十一日のこと、郵船会社汽船和歌浦丸が、移民一千余名を乗せてホノルル港に到着した。

「安藤は酒が好きだから」

 ということで、ときの逓信大臣榎本武揚と、郵船会社社長森岡正純の両氏から、それぞれ一樽ずつ、灘の生一本のコモカブリの美酒合わせて二樽が、この船でおくられてきた。

 まだ日本酒の輸入などなかったときとて、安藤の喜びは下戸の想像しうるところではない。しかし、安藤の喜びとは正反対に文子の悲慌は一通りではなかった。

 安藤は、こう書いている。

「この二樽が領事館に担ぎ込まるるや、妻は直ちに余に向って“断然二樽とも取り捨つべし”と叫んだ。余はこれに対して、“無法千万なることを申すなかれ、飲酒の善悪は暫くおき、かかる貴顕紳士より折角寄贈せられたる物品を、棄却するなどとは以ての外なる次第にて、左様なる儀は戯れにも、二度と再び発言すべからず”と叱責したが同人なかなか承服せず、“今や移民の取締りに禁酒を必要とするの詮議中なるに、誰より寄贈せられたとて、二挺の酒樽を領事館内に貯存するは甚だ不都合ならずや”など、気焔なかなか当り難きに由り、暫時その鋭鋒を避け、然る後おもむろになす所あるべしという考えにて‥‥」およそ一時間ほど、安藤は外出するのだが、ことはここで大団円となるのである。

 ここのところの真相を、次回文子夫人の手記「ハワイ島樽割り物語」に聞こう。

安藤太郎昇天七周年記念会の際展示した文子夫人の画に根本正翁が賛歌を書添えたもの
 
安藤太郎昇天七周年記念会の際展示した文子
夫人の画に根本正翁が賛歌を書添えたもの




禁酒の使徒  安藤太郎伝  I
 
【キリスト教──1964(昭和39)年8月8日】

  二つの酒樽を割る
 
  ドラマティックな禁酒のはじめ

「当人は、よほど喜んでおったようすでした。そしてまた領事館の人々の中にも、やはり好きな方が居られますから、この二樽を飲み出されては大変だと存じ、早速美山さんにうかがいましたところ『タバコなら人にやっても済みますが、酒はどうも拾てるより外致し方ありますまい』とのことでした。私も、それで大いに勇気が出まして、安藤に、捨ててしまうよう勧めましたところ『いかに飲酒が宜ろしくないからと思せ、せっかく榎本様がたから、ご親切にお贈りいただいたものを、捨てるということは何分できない。何しろ少々味わってみよう』と申して承知しません。余儀なく片口で少々出しました。すると当人は猪口に一杯飲んでみて『これは美酒だ』と大そうほめました。『もう一杯』と申しますから、私は直ぐに残りをベランダの外にこぼしてしまいました。

 かれこれするうちに、安藤は用事ができて外出致しましたから、お贈り下さった方へは実に相済まない事と存じましたが、何分このままに致しておけない場合でありますから、思い切って馬丁の近藤と申す者に命じまして、右の二樽を領事館の裏手の空地へ運ばせました。ちょうどそこに掃溜めがありましたので、馬丁は金槌を持出して、酒樽のフタを打ちこわし、八斗の酒を掃溜めの中へ全くあけてしまいました。その後承りますとその穴へ火をつけましたら、終夜燃えておったそうです。

 一時間ばかりで安藤が帰りましたから、その始末を話しましたところ、当人も、も早仕方ないと断念したとみえまして、それなら『これを好機会に一生涯禁酒しよう』と決心いたしました。それ以来、一滴の酒類も宅へは入れないことにいたしました」

──ここのところを、当の安藤は、どう書いているかみると、

「その時の余の驚愕と憤怒は、もとより尋常一様ではなかった‥‥」

 と、世間並み飲み党亭主族のやるかたない憤懣の惰をのべているのだが、さて、

「日本とは違い、女尊男卑の米国風最も流行の土地柄といい、ことに禁酒主義は至る処に盛んなる社会のこととて、万一、飲酒欲のことより婦人に無作法を働き、その始末が新聞紙上にでも評判せられたらんには、余が職掌上、国家の不名誉をきたすことなきを得せずとの観念がたちまち心頭に湧き起り、飲酒家として非常なる忍耐を以て、万事穏便に取計いたるのみならずこの機を以て、終に生涯の禁酒を断行するに及びたるはたしかに大能の摂理に外ならざることを分明に理解するものである」

 翌二十一年四月七日、「在ハワイ日本人禁酒会」が結成され、会長には安藤太郎がなり、副会長に伴新三郎、書記に鵜飼猛が選任された。鵜飼は、美山が三度目の渡来のときつれてきた青年で、のちにメソジスト派の監督となり、銀座教会の鵜飼勇牧師や国際キリスト教大学総長鵜飼信成教授の父である。

 明治二十三年三月に組織された「東京禁酒会」は、十一月の総会で安藤を会長に推戴した。これから、機関誌「国の光」を発行して、安藤夫妻の禁酒運動への家ぐるみの献身が始まるのだが、ドラマティックなハワイの樽割りから今年は正に七十七年。そのときの酒樽のフタ板はテーブルに造られて、今も安藤記念教会の宝物の一つとなっている。

 おわり

安藤記念教会に残されている酒樽のテーブル
 
安藤記念教会に残されている酒樽のテーブル




誤植について
 
 本文中の誤植を以下の通り修正しました。
 
  ・五稜閣→五稜郭
  ・感臨丸→咸臨丸
  ・旗鑑・同鑑・鑑長→旗艦・同艦・艦長
  ・傷害保障として→傷害補償として(伝G) 

 

  

一般財団法人 日本禁酒同盟
Japan Temperance Union