「新地町のくるめがすりの家―遠藤新設計による旧小塩邸」


加藤純二
 
(『仙台郷土研究』へ投稿中、平成16年1月)

 くるめがすりの家とは福島県新地町に平成五年秋に移築された東京都武蔵野市西久保一丁目八−二にあった旧小塩完次邸のことである。その設計者は遠藤新(あらた、1889-1951)という新地町出身の建築家で、現在、この建物は、同町の教育委員会が管理している。事前に町役場に連絡すれば、内部の見学ができる。町出身の偉大な建築家の記念館であると共に、それ自体が設計依頼者である小塩という社会運動家の生活の場であったという、二人の理想・使命感が生みだしたユニークな建築物であると考えられる。この報告の筆者・加藤は小塩完次と生前、文通をしたり、武蔵野市に同氏を訪問したり、氏の逝去後、小塩邸が移築のため解体される直前、氏が保有していた書籍などを整理し、後述の「小塩完次記念・日本禁酒同盟資料館」に保存する手伝いをした。なお新地町は福島県に属するが、江戸時代には伊達藩領に含まれ、相馬藩と接する藩境の警備と海上船舶の監視の役割を持った場所であった。福島県の町の文化財ではあるが、この報告を「仙台郷土研究」に投稿するのは、他に、遠藤が旧制二高に学び、宮城県には彼が設計した建物がいくつか存在したことから、仙台に無縁ではないと思うからである。

1)小塩完次について(1)
 
 明治三0年(1897)、長野県飯田市伝馬町二丁目に、味噌醤油醸造業松岡屋を代々営んでいた小塩家の万次郎と加寿の次男として生まれた。彼は小学生の時、禁酒演説を聞き、その時、「一生酒を飲まないと今決心出来る人はいませんか?」と言われ、聴衆の中で手を上げた一人であった。大正一一年、早稲田大学政治経済学科に在学中、「学生排酒連盟」を設立し、大正一四年から日本国民禁酒同盟に参加し、以後一貫して、妻とよ子とともに、禁酒運動を中心とした社会運動を続けた。特に、戦前・戦中の経済的にもクリスチャンとしても困難な時代に、日本禁酒同盟の組織を維持した。米国に一九三五年六月に発祥したアルコール依存症者の自助団体であるA・A(匿名アルコール依存症者の会)が日本に紹介されると、昭和二八年(1953)九月、小塩は同様の団体を「断酒友の会」として発足させた。昭和五五年からは財団法人・日本禁酒同盟の理事長となり、完次は平成四年六月二六日に九四才で死去した。妻とよ子はその前年の十月一六日八八才で、死去した。完次の葬儀で、上記同盟の理事長を継いだ玉川学園大学農学部教授の小塩玄也は、次のように述べている。
 「完次の生涯は、先ず、多くのすぐれた先生方、先輩方、例えば、沢柳政太郎、根本正、安部磯雄、賀川豊彦、片山哲、守屋東……、こういった方々のご薫陶とご指導の賜でございました。……またその生涯は、日本禁酒同盟、救世軍、国際平和協会、世界連邦建設同盟、道義新生会、等々の諸団体と、そこに連なる多くの同志、同僚の方々の御協力の中にあって支えられて参ったのでございます。……」
 

小塩完次・とよ子

2)遠藤新について(2)
 
 彼は帝国ホテルを設計・建築した著名な米国人建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright, 1867-1959)の弟子である。遠藤は明治二二年、現新地町、旧福田村の農家に生まれ、相馬中学を卒業し、旧制二高に進んだ。彼は土井晩翠の授業に啓蒙され、「少しでも多くヨーロッパのことが知りたいと思うと、もう居ても立ってもいられなくなり、課外の時間にも晩翠をつかまえては、教えを乞うようになっていった」という。後年、晩翠は二高時代の教え子を述懐した文章で、「建築の大家―蓬頭乱髪で一見ルンペン的な要子(ママ)をしていた遠藤新君がある(土井晩翠著『雨の降る日は天気が悪い』)」と記しているように、晩翠にとっても、そんな遠藤は印象に残る生徒だったのだろう。晩翠と遠藤の親交は、これより遠藤が亡くなるまで続いたという。
 

遠藤新
 
 明治四四年、遠藤は東京帝国大学建築学科に入学した。大学に近いYMCA寮に住んだ新は、寮に来て布教していた牧師によってキリスト教に傾斜し、上京して二ヶ月目に麹町の富士見町教会で洗礼を受けた。ここで婦人運動の先駆者羽仁吉一、もと子夫妻の知遇を得ている。彼は大正デモクラシーの波の中で、皇室中心的、官僚的でなく、また欧米崇拝でもない、国民の生活に密着した自由で開放的な建築設計を模索していた。
 当時、帝国ホテル支配人だった林愛作は新館建設の設計を、幾多の計画と中断を経て、ライトに依頼し、日本の建築や浮世絵に関心があったライトはこれを承諾した。ライトは設計を進めるための日本人アシスタントを求めた。卒業後明治神宮造営局に勤務していた遠藤を林が知っていたため、紹介され、大正六年(1917)一月、ライトと会った。そして四月、ライトと共に、設計のためウィスコンシン州タリアセンのライトの仕事場に行った。新館の建設は大正八年九月に始まったが、ライトの使命感の強い、しかし妥協のない仕事は、費用の高騰と完成の遅れをもたらし、不況、本館の火災、地震などに見舞われ、ライトは完成を見ることなく、大正一一年七月半ばに日本を去った。ライトは来日中、自由学園の校舎と明日館(みょうにちかん)を遠藤と共同で設計した。『明日館小史』に引用されている羽仁吉一の文によると、ライトは自由学園の送別会において、「自分は日本に来て二つの型の人々を見た。その一つは全く物の心の分からない人、そろばん勘定しか分からない人だ。その人達しか見なかったら、私は日本に来たことを悔いたであろう。しかしまた、私は物の心の分かる人々を見た。それで私の心は満足した」と言って、ぽろぽろ涙をこぼしながら食卓で演説したという。帝国ホテルの玄関に集まった職人やホテル職員に見送られ、あとを遠藤に託し、ライトは去った。大正一二年九月一日、全館オープンの当日、関東大震災が起こり、わずかの被害で建物が残ったことは有名な話である。

3)遠藤新の小塩邸設計思想
 
 完次の交友(3)と遠藤のそれとは、禁酒運動と建築分野という違いはあっても、共通する部分が大きかった。小塩の妻とよ子は自由学園の第二回卒業生で、自由学園の西池袋の教室や講堂、東久留米の初等部や女子部の建物の設計者は遠藤である。小塩夫妻も遠藤もフレンド派のクリスチャンであったこと、日本禁酒同盟と遠藤の事務所が神田の同じビルの中にあったことなどから、小塩は遠藤に設計を依頼したと考えられる。
 遠藤は小塩の依頼に対して「洗えば洗うほど良くなる、くるめがすりのような家を作ろう」と言って設計したという。昭和六年に建築されたが、同じ程度の大きさの住宅が四〇〇〜五〇〇円で出来たところ、小塩邸は二千円の費用がかかったという。当時としてはめずらしく、水洗便所が設計されており、現在の日本禁酒同盟の事務局長・小塩政子によると、それを知った小塩完次は、「水洗は金を食うので、普通にしたいという修正案は、一杯飲んだと思って、という遠藤さんに否決された」と、昭和四年九月一二日付けの完次の日記に記されているという。
 小塩邸には以下のような特徴がある。新地町教育委員会発行のパンフレット(4)によれば、小塩の感想として、「…廊下もない、しかもどの部屋への連絡にも都合がよい。二六坪という小さな家でありながら…一二畳の広間があり、それに八畳、六畳の二室が結びついているので、数十人の集まりを開くことさえできる。…書斎はまるで別天地。広間は居間、食堂、応接室、集会場、作業場を兼ねて公共性がある」と記している。禁酒運動に打ち込む小塩の日常生活を知っていて、設計にそれを取り入れたのであろうと考えられる。
 

小塩邸
 
 同じパンフレットの中に、遠藤新の三男・遠藤陶の言葉として、「居間を中心に各部屋が展開する部屋と部屋との関係、あるときは独立し、あるときは一体となり、…(遠藤は)必要な部屋を並べて廊下でつなぐだけの住宅を極端に嫌った。それは建築のみならず、科目同士が何の脈絡も無しに知識の切り売りに終始している教育など、明治政府が作った社会通念、文化に対する痛烈な警鐘でもあった」と記している。
 敗戦後、ライトからマッカーサーに手紙が届き、それには「どうぞ面倒な手続きを省力し、あなたに二人の忠実な日本人友人への私の援助をお願いするのをお許し下さい。そして同封の小切手を、東京の帝国ホテルの建設にあたっての忠実な助手遠藤新に与えて下さいますようご配慮ください。遠藤さんは東京帝国大学の博士を通じて連絡がとれると思います。もし彼の家族がウィスコンシン州スプリング・グリーンの私のもとへ渡ることができたら、彼がいかなる政府の援助も受けないで自立できることを保証します。……そして帝国ホテルを建てた当時の支配人が林愛作です。彼にも同額のものを同封しますので助けてやっていただきたいのです。……私は彼らの比類ない忠誠心に対して報いずにはいられないのです」とあった(2)。遠藤は「ライトを深く尊敬し、恩恵を感じながらも、自分の使命が日本にある、と確信していた。そして、その想いが言葉にならず、「大恩は謝せず」と、涙に目をうるませた」という(遠藤陶「真実を追い求めた建築家 父・遠藤新のこと」より)。
 遠藤は宮城県関係では、石原謙邸、佐藤病院、小町屋操三邸、常磐木学園増築、東北大学講堂改築、小原鎌倉ホテル増改築、的場邸などを設計した。昭和二三年、仙台市公会堂の設計コンペの審査員をしたあと、学校建築に情熱を注ぎ、若柳中、田尻中、一迫中の設計をした(2)

(4)小塩邸が新地町に移築されたいきさつ(5)
 
 筆者は小塩完次とは出身が同郷であり、偶然、禁酒運動の歴史に関心を持ち、日本禁酒同盟の初代副会長の伝記「未成年者飲酒禁止法を作った人 根本正伝」(1)を出版した。事前の調査に当たって小塩から直接、教えて頂いたり、資料の貸与を受けた。子供のなかった夫妻は生前、宅地を武蔵野市に寄付し、「断酒道場」あるいは「アルコール保健センター」の建設を考えていた(6)。しかし小塩が育てたいくつかの「断酒修養会」はすでに公共の市民センターなどで行われており、断酒道場の建設には市の予算もかかることから、実現しなかった。完次の死後、小塩玄也理事長、完次夫妻の近所に住み、日常の面倒をみていた完次の甥の丘平・政子夫妻と、遠藤新の遺族、新地町との間で、小塩邸を解体移築し、町に保存することで話がまとまり、土地を売却したお金のうち一千万円が移築費用二千三百万円の一部として町に寄付された。工事は清水建設株式会社が請け負った。また同時に小塩が保有していた書籍類など日本禁酒同盟の資料は、一部残された土地に建設された「小塩完次記念・日本禁酒同盟資料館」に保管され、この資料館は日本禁酒同盟事務局として使われている(7)
 平成九年、ライト設計の校舎や明日館は国の重要文化財に指定された。なお大正一四年に明日館の向かいに建てられた、自由学園設立者である羽仁吉一、もと子夫妻の邸宅は、遠藤によって設計された。遠藤陶氏は、平成六年に解体されたこの羽仁邸を譲り受け、自由学園や建築関係者などと共に、現在、移築先を新地町、仙台市などに求めて運動中である(8)

【資料】
 

(1) 加藤純二著『未成年者飲酒禁止法を作った人 根本正伝』銀河書房、平成7年.
(2) 小塩完次著『日本禁酒運動の八十年』日本禁酒同盟発行、昭和四五年.
(3) 遠藤陶著『帝国ホテルライト館の幻影 孤高の建築家遠藤新の生涯』廣済堂出版、平成九年.
(4) 新地町教育委員会パンフレット「くるめがすりの家―遠藤新設計による旧小塩邸―」
(5) 河北新報、平成五年四月八日、「日本のライト遠藤新の遺産古里へ、東京の小塩邸移築して保存」
(6) 河北新報、昭和六三年五二七日夕刊、「アル中患者に"駆け込み寺"日本禁酒同盟理事長が計画 社会復帰を手助け」
(7) 禁酒新聞、平成六年一〇月一日、記念号「小塩完次記念・日本禁酒同盟資料館竣工」
(8) 朝日新聞、平成一二年一月二八日、「大正デモクラシー運動の一翼を担った羽仁夫妻 東京・自由学園の旧邸宅を仙台に 建築家の息子遺族ら復元を希望」

(謝辞:旧小塩邸における説明で、新地町教育長目黒美津英氏から多くのご教示を受けた。)

 

  

財団法人 日本禁酒同盟
Japan Temperance Union


検索エンジンKEYWORDS:くるめがすり,福島県,新地町,遠藤新,小塩完次,小塩玄也,日本禁酒同盟,小塩政子,ライト,帝国ホテル,建築,設計,自由学園,明月館,