アル中の記憶をたどって
[ 第1〜3部 ]

 宮 城 県 ・ T            

 この文章は「砂時計」78号(平成10年8月)から掲載が始まった宮城県・Tさんの体験談です。

 第1部 幼い頃からアルコールを覚えるまで

 ものごころのついた頃、酒乱の伯父が怒鳴る声が非常に恐ろしかった。父の兄弟は4人で、その伯父さんは次男である。私の家は宮城県北の小さな町の裏手にあり、集落から少し離れた農家である。農家といっても貧農であり、農業だけでは生活はできないのであった。祖父は川魚を取り、また網などの修理をして生活の足しにしていた。父は桶屋の職人で、家にはほとんど居なかった。祖母はこの町の名産、笊(ざる)作りなどをしていた。母と上の方の兄姉が農作業をしていた様だ。
 酒乱の伯父の家族は庭の小さな池の向かい側に住んでいた。その頃は戦後4、5年の頃で、酒を現在のように毎日飲める様な時代ではなく、酒が入ると酒乱になる伯父も、常には静かな人だった。伯父の子供は3人姉妹で、伯父の酒乱が始まると、前の河原に避難するという事だった。
 私はおばあちゃん子で、何か悪戯をして母に叱られると、祖母の背中に逃げていった記憶がある。私が小学校に入る頃には、伯父の家族は仙台に引っ越して行き、小学2、3年の頃に、祖父と祖母が相次いで亡くなった。また上の姉が嫁に行き、家族が急に少なくなった。その頃から父の桶職人の仕事も下火になってきた。風呂桶、手桶、漬物桶などがポリ容器になり、父が家に居る日が多くなった。私が中学生になる頃には、今度は父が泥酔する様になった。農家の囲炉裏のある部屋と畳の部屋との古い板戸を通して、父の酔ってくだまく声がしょっちゅう聞こえる様になった。子供心に思ったのは、自分が酒を飲む様になっても、父の様な酒飲みには絶対なるまいと……。
 父が泥酔する日は大抵見当がついた。常に髭を伸ばしている父が、綺麗に剃った日は、必ず泥酔して来るのである。あの時期、父が酒に溺れていった気持が今になって分かる様な気がする。酒乱とはいえ、弟家族が実家の土地から去り、祖父が亡くなり、一年後には祖母が亡くなり、長女の姉が嫁いで行った。家族が少なくなるということは、非常に淋しい事であったに違いない。私自身もそれを強く感じた。またそれに追い打ちする様に、プラスチック類の製品が父の仕事まで奪っていったのである。父母も笊作りをするようになった。その笊が仕上がると私は笊の問屋商に売りに行かされた。帰りに父の晩酌を買って来るのである。その頃の家計は苦しく、父の酒は焼酎であった。
 家族のことはさておき、私自身の性格は小さい頃から川魚取りはもちろんのこと、山菜取り、栗拾いと、何にでも夢中になる性格であった。また小学校の高学年の頃から読書に夢中になった。宇宙の本、地底王国の本など手あたり次第に読んだ。中でもシートン動物記にはすっかり嵌(は)まってしまった。一旦読みだすと最終迄読まないと気がすまないのである。母に朝起きられないからと電気を消されると懐中電灯で読んだ。忽ちに近視になった。私の兄弟は七人であるが眼鏡を使用しているのは、家を継いだ次男の兄と末っ子の私だけである。
 中学も三年の半ばを過ぎると、級友達は進学の準備に忙しい様子だった。私は家計の状態を知っていたので、高校には行かないつもりだった。しかし、その頃は兄達が全員職に就いており、私が高校に上がる位は援助するとの事だった。私はその時気づいたのだが、自分の将来を一度も考えた事は無いのだった。どんな職に就こうとか、何で飯を食って行こうとか、ただ漠然と「商いが出来たら良いなあ」と思った。その理由は、小さい頃から商店の子供との小遣い銭の差を身に染みて感じていたからである。
 お話しは変わるが、私達の子供の頃は、鳩を飼うのが流行っていた。私もシートン動物記で銘鳩アルノーの物語を読み、飼ってみたいとは考えていたが、お金がなかった。クラスの中でも何人か鳩を飼ってる人達がいたが、高校入試とか、就職とか自分の将来を考える人達は鳩の飼育を止める時期だったのである。高校受験のための補習授業の終わった帰り道、鳩を長年飼っている級友から一羽の鳩を貰ってしまった。何にでも夢中になる性格の私が高校入試を目前にして鳩に夢中になっていった。貰った鳩が雄だったので、隣の大きな町まで自転車で行き、メスを買ってきて番(つがい)にさせた。やろうと思えばお金は何とか工面がついたのだった。しかしその翌朝には、鳩小屋の後ろの板をこじ開けられ、雌だけが盗まれていた。鳩を飼っている人は通称「鳩っ子馬鹿」と言われていたが、なかなかの悪がいたのを知った。私はそんなことではめげなかった。逆に小屋を大きくし、家の中から目の届く所に設置した。私は本を沢山読んでいたせいか、高校はさほど勉強もせず合格した。もちろん競争率の高くない地元の学校である。高校に入っても自分の将来を考える事は無かった。それよりも「鳩っ子馬鹿」の方は益々進んでいった。もう数は20羽位になっていたのである。
 鳩の魅力は何と言っても他の鳩を釣る事であった。朝、餌を与えず鳩舎から飛ばして20〜30分位飛んで屋根に降りて来る。その時に他の鳩が一緒に降りたら大変であった。鳩舎に餌を撒いて他の鳩まで呼び込むのだが、慣れない他の鳩は中々入らない。それを如何にして鳩舎に呼び込むかが大変なスリルであった。学校も度々遅刻をした。もうその頃は鳩仲間の悪に染まっていた。
 私に煙草と酒を教えてくれたのは、その鳩仲間の二つ上の先輩である。最初がポケットウィスキーで、その先輩の二階の部屋で飲んだが、胃が受け付けず、全部嘔吐してしまった。煙草もそうである。むせて肺の中には吸えなかった。でも仲間がどんどん酒煙草を覚えていくので、私も努力した。高校二年の夏休み、アルバイトをして靴を作った時である。その靴屋さんには先輩達がたむろしていた。私も靴を作ってから顔なじみになった。夜になると各自持ち寄りで、酒を飲むのだった。私は家の畑から白菜を抜いて初めて参加した。その時分は日本酒でコップ酒だった。ウィスキーよりも飲みやすく、私は一気に飲み干した。回りの人達に「お前は強いなあ」と言われ、注がれるままにまた飲み干した。何杯飲んだか分からない。次の日まで全然記憶が無かった。(煙草と酒を教えてくれた先輩は今から十年も前に、アル中と糖尿病で亡くなってしまった。)
 ともあれ夏休みは終わり、二学期始めのテストがあった。その結果が後ろから数えた方が早いと、担任の先生に宿直室に呼ばれて説教された。「一体夏休みに何があったのだ‥‥。」と。その時の私に酒が脳を鈍らせるなどとは分かるはずなどなかった。高校三年の頃は級友の家に試験勉強と称して数人集まり、家の人達が寝るのを待って宴会をやった。何時もブラックアウトで、翌日のテストを白紙で出し、追試を受ける常連になってしまったのである。
 今考えると私は高校を卒業する頃にはアル中になっていたのである。その当時自分がアル中でトランク一つの渡り鳥になろうとは想像もできなかった。

 第2部 アル中の進行具合

  第1章

 いつも追試験の高校生活も終わりに近づいた。自分は高校で何も心に記する事もなく卒業するのかと思った。級友達はそれぞれの夢に向かって輝いているように見えた。級友達の方から見れば、自分は何の目標ももたない、存在感のない人間に見えたに違いない。卒業前のある寒い日、ストーブを囲んでいる時にクラスでも一番美しい女生徒に思いもかけないことを言われた。「あなたは何故もてないか知っている?」と‥‥。女子生徒が30数人、男子生徒が12、3人のクラスではきつい話であった。返事に困って「何故?」と逆に聞いた。「あなたは人に皮肉や、人の心を傷つけることを平気で言うからもてないのだ」と‥‥。なるほどと思った。確かに自分は思ったことを考えもせず口に出す人間であった。実家を継いだ兄にも、「お前は包容力のない人間だ」と言われていたが、その時は意味が分からなかったが、クラスの美しい女子生徒に言われて気がついた。自分が高校生活で学んだことは唯一、これだけであった。人の傷つくようなことは決して言わずに生きていこうと心に誓った。
 ともかく、自分のやりたいことは何か、自分の夢は何か、分からないまま高校を卒業し、隣町の時計と楽器の商店に就職した。その店は時計の卸屋もやっていた。入社して5ヶ月位経った頃、若社長に「時計の卸部と学校廻りの楽器販売部のどちらかを選んでくれ」と言われ、自分は時計の卸部を選んだ。それは先輩方が旅館に泊まって営業して歩く楽しそうな話を聞かされていたからであった。また高校の修学流行に行けなかった家庭の事情のせいかも分からない。しかし卸部といっても、背の高い先輩と社長と自分の三人だけであった。楽器部は若社長と人間味のある先輩(後から分かった)の二人だけであった。店にはレコード係が二人の女性と、時計の方は修理の職人が数人、また事務所には数人の女性事務員とピアノ教室担当の女性が一人、それに大奥さんと若奥さんで、合計十数人の商店であった。卸部が出来るまでは時計の職人さんが交代で出張に行っていたとの事だった。自分が入社してから卸部と楽器部が誕生したのである。それでもピアノ配達は手の空いている人達が手伝いに出された。
 卸部のその背の高い先輩は世間を渡り歩いた海千山千の小狡い人であった。営業成績の良いのは自分のものとし、仕事のきついものは私に押しつけた。特に出張で注文を受けた柱時計、目覚まし時計の梱包は私にやらせた。それも報告は自分が梱包して送ったかのようにするのである。私は農業は好きではなかったが、農家出身なので、汗をかく仕事でも平気だったが、しかしその先輩の言動の陰日向の激しいのには我慢できなかった。私は社会に出て日も浅いし、年も若いし、ずっと辛抱していたつもりだったが、その事件は冬場の岩手出張で起きた。
 その頃はスタッドレスタイヤなどはない頃で、雪道はチェーンを巻く時代であった。水沢、北上、花巻へとのぼり、花巻からあの遠野物語で有名な遠野方面へと進み、仙人トンネルを抜けて、釜石が営業の終点であった。その時も仕事は無事に終わり、後は帰るだけであった。釜石から仙人トンネルに向かう途中から天候がくずれ、吹雪になってきた。トンネルは道路の一番高い所にあり、雪解けの頃でも道が凍っているときがあった。案の定、トンネル近くが吹き溜まりになっていて、車はストップした。夕方で暗くなりはじめて、その先輩も焦っていた。私も後ろから押したのだが、吹き溜まりを越える事は出来なかった。トンネルを抜ければ、あとは緩やかな下り道で、夜でも心配はないのだが‥‥。辺りはすっかり暗くなり、二人とも途方にくれていた。その頃は日中でもあまり車の通らない田舎の砂利道であった。暗くなって30分も過ぎた頃、後ろから釜石鉱山のマイクロバスが来た。人夫風の人達が4、5人バスから降りてきて、車を押してくれたのである。車は動きだし、無事トンネルまでたどりついた。
 普通の人はそこで車を止め、後ろから登って来る車を待ち、押してくれた人達にお礼を言うのが常識だと思うのだが、その先輩は長いトンネルを全速力で逃げたのである。その結果、トンネルを走行中にチェーンが数カ所切れ、雪道に出て間もなく、後ろから来たマイクロバスに捕まったのである。確かに腕時計のカバンも積んでいるし、現金も百万円近く持っているし、怖かったのかも知れない。しかし釜石鉱山の名前が付いているバスの人達がそんな悪さをするだろうか。私は車を降りて、そのマイクロバスに入り、遠くまで帰るので急いでいた事を理由にお詫びして、車を押してくれたお礼に、酒一升位買える金を出し、「これで一杯やって下さい」と言った。その人達も気持ち良く分かってくれた。その頃は、何か起きた時は酒一升で物事が解決したのである。不思議な習慣であった。ところがその晩泊まった宿で、「なんであの人達に酒一升分の金を払ったのか」と、その先輩に責められたのである。「俺たちが今晩飲む酒代が無くなってしまったではないか」と‥‥。しかも店に戻り、社長夫妻から逆に、「良く酒一升ですんだなあ」と褒められると、「俺が渡せ」と言ったと報告する人であった。さすがに私も頭にきて、卸部から外してくれるように若社長に願い出たのでした。その頃からである、例のアル中が本格化したのは‥‥。
 就職してからしばらく顔を出さなかった病気が、仕事にも慣れ、多少なりとも自分で収入を得る様になると、頭をもちあげてきたのであった。ある時は道端で眠り、お巡りさんに家まで送り届けてもらったり、眼が覚めると玄関の土間で寝ていたり、また、金が無くなり、隣り町から歩いて帰ったり、宴席があると必ず、皆んなに迷惑をかける飲み方になっていたのである。母が生きている頃によく小言を言われた。「若いのにだらしがない」と‥‥。また兄も「お前は酒を飲むのではなく、洒に飲まれているのだと‥‥」。全くそのとおりであった。20才過ぎた頃には、飲んだくれた翌日は目が覚めるのが昼過ぎになっていた。もちろん会社は休みである。体の背中から腰にかけて押されるように痛んできた。痛み出すと、仰向けになっても、うつぶせになっても、痛みは止まらず、甥っこに背中に乗って足で踏んでもらった。生活環境を変えなければ店を首になってしまうと考え、住み込みにさせてもらった。その頃の時計店には職人と修理見習いの方が住み込みで働いているのが普通だったので、自分も簡単に寝泊まりさせてもらうことができたのである。自分はあの高校の時の女生徒の件以来、人の事はあまり言わないつもりで生さているし、それに人なつっこい方なので、経営者の家族には可愛がってもらった。
 しかし住み込み生活に慣れてくると、また酒で問題を起こす事が再三あった。それに商いのきたなさが自分の性格に合わないような気がしていた。腕時計、時計のバンド及びメガネ類の利幅がすごいのである。中でも驚いたのは時計の修理代であった。ある時、お客さんが腕時計の秒針がはずれたと言ってきた。職人さんに聞いたら、2、3日預からないと直せないという。それに修理代が4、5百円とのこと。自分の給料が1万円、ビールが大瓶で百二、三十円の頃だったと思う。住所・氏名を聞いて預かり証を渡した。そのお客さんが店を出るか出ないうちに秒針をはめて腕時計の修理は終わったのである。自分はその職人に、「そんなに早く直るなら、今夜してあげた方がお客さんがありがたいと思うんじゃないですか」と言ったら、職人が言うには、「二、三日預かることでお金がもらえるのだ」と‥‥。
 商いとはこういうものかと落胆したのであった。また、岩手の山村のお得意さんで、時計と衣類を販売している店があった。そこのご主人は衣料関係の方がもっと儲かると言う話をしてくれた。ジャンパー類などは一山幾らで仕入れて、自分で販売価格を決めると言った。今度は逆に、商売とはそんなに儲かるものなら、自分で商いをしようと思いついた。何の資金も何の経験もないのに、ただ漠然と商売は儲かると考え、店を退職し、実家に帰ったのである。
 実家に戻って驚いたのは父が病気で寝たきりになっていたのである。胃潰瘍とのことであった。手術をすれば助かったのかも分からないが、その頃実家には入院する金も無かったのである。父は弱々しい声で、「ピースを吸いたい」と言うので、外に出た時に2箱買ってきて父の枕元に置いた。父は常に刻み煙草を吸っていたので、ピースは美味いと思っていたのかも分からない。自分にとっては最初で最後の親孝行となってしまった。父はその年の初秋に亡くなった。自分は父の葬式に集まった親類の中でアル中の醜態を晒してしまった。母方の叔母には「お線香がきれないように燈せ」とか、三番目の兄の義姉には「風呂がぬるいから沸かしてくれ」とか言ったらしい。後で聞かされて、冷や汗の出ることばかりであった。しかし自分には全く記憶が無いのであった。
 人の心を傷つけないで生きることを目標にしていた自分が、酒が入ると礼儀すら満足にできない。いや礼儀どころか、無礼な言動を行っていたのだ。父の葬式に集まった兄弟で相談したらしく、三番目の兄の世話で、神奈川県の川崎市の清掃局に入れる話が持ち上がっていた。その頃、商いすることは頭にあったのだが、何もできずに例の悪仲間と毎日ブラブラ遊んでいたのであった。その話は半ば強制的であった。自分は不安はあったが、川崎に行く決心をした。父の葬儀の数週間後、ギャンブル中毒とアルコール中毒の悲惨な生活が待っているとも知らず、都会へと旅立つ自分であった。

 第2部 アル中の進行具合

  第2章

 酒とタバコを教えてくれた先輩が、平塚市の知人のところへ働きに行くということで、川崎駅まで同行してくれた。その先輩とは都会では以後、会うことはなかった。三番目の兄の家は南部線と田園都市線とが交差する溝ノ口駅で降り、車で20分位のところにあった。通称、六○人部隊と呼ばれた兵隊がいた木造のもとの兵舎であった。二階建てが一棟、平屋が二棟あった様に覚えている。市役所関係の人達が十数世帯ほど住んでいるということであった。国道246号線の脇の高台にあり、晴れた日には富士山がきれいに見えた。
 川崎市清掃局の高津所に見習いとして兄と一緒に働きだした。農家出の自分には清掃局の仕事は間もなく慣れた。しかし心の中には、営業マンの自分が清掃局の作業員なんかという気持ちは消えることはなかった。職場の人達とも慣れてくると、アルコールの問題が顔を出し始めた。ブラックアウトの状態で、兄といつも大げんかをしていた。理由は他愛もないことであった。気が付くと、タクシーに布団と手荷物を積んで、東京方面へ走っていたり、兄の作業車の中で目が醒めたり、とにかく飲むたびに記憶がなくなるのである。義姉には散々迷惑をかけてしまった。その頃から三十数年近く過ぎた今でも義姉は、私の声を聞くと心臓がおかしくなると言っているとのことである。
 ともかく翌年の四月には川崎市清掃局の提根に作業員の辞令が下りた。最初は電車か先輩の車に便乗して通勤していたが、川崎駅の西口方面にアパートを借りることになった。堤根には義姉の兄夫婦が官舎に住んでおり、今度はその義兄夫婦のお世話になることになった。しかしそのアパートに住むことになった最初の日にアルコールで失敗をしてしまった。酔って自分が借りたアパートが分からなくなってしまったのである。結局、部屋にたどり着いたのは明け方であった。
 その頃の川崎駅西口方面は東口とは大違いでさびれていた。それでも通勤の途中には飲み屋横町の赤提灯が目についた。川崎の職場に移って、一番最初に気づいたのは、競輪・競馬のことであった。通勤帰りの赤提灯でも、競輪・競馬の話ばかりである。田舎から出てきて間もない自分には、その話の中には入っていけなかった。競輪と競馬が分からないうちは田舎者のような気がしてならなかったのである。それでも職場では自分の年と同じ年頃の人達と友達になった。しかし飲み会になると、いつもの通り記憶がなくなるまで飲み、友達に迷惑をかけるだけであった。職場の旅行でも、バスの中で酔い潰れて、宴会まで出た記憶がなかった。その頃から二日酔いで欠勤するようになり、堤根の義兄にも迷惑の掛けっぱなしであった。(その義兄は膵臓の病気で何年か前にもう亡くなっている。)
 その頃には競輪・競馬もやるようになり、自分の場合は特に競馬に夢中になった。初めて行った中山競馬場では、一升酒を飲んでしまい、レースどころではなく、記憶が戻ったのは、中央線の三鷹駅で、「終点です」と、車掌に起こされ、途方に暮れた。確か、桜の花が五重の塔の広場に咲いており、春うららかな季節であった。自分はアル中のまっただ中にあった。
 堤根の義兄が事務所からの苦情をカバーしてくれていたのも知らず、相変わらず二日酔いで休んだある日、新聞を見ていると、日本テレビプロダクションで、俳優及びテレビタレントの募集広告が目に止まった。「これだ!自分がやりたい職業は!」と思ったのである。二日酔いで仕事にも出られない人間が、夢中で履歴書を書き送ったのである。やがて第一次書類審査の合格通知があり、喜びいさんで第二次の面接審査に行ったのである。二、三日後、合格の通知が届いた。合格は嬉しかったが、入所金が二万五千円、月謝が七千円であった。
 その頃の自分は近くの赤堤灯はつけで飲み、昼食は職場に来るそば屋さんもつけで食べ、部屋代を払うと、残りは競馬で、給料は一週間で消えていた。しかし生活がいくら苦しくても、兄と義兄には借金はしなかった。また借りようとしても、叱られるだけと考えていた。しかしこの時だけは、義兄に言って借金をした。その合格通知表があまりにも立派であり、金儲けの偽プロダクションとは、義兄も自分も夢にも思わなかったのである。
 日曜ごとの演技指導は八重洲口から直ぐのある会館で行われ、常に20数人の受講生はいたような気がする。早口言葉の本を暗唱したり、寅さんの台本で練習したり、田舎者の自分には、それだけでも夢と希望に満ちあふれた月日だった。その時期だけはアルコールの量も少なかった。仕事も休むことがなくなっていたのである。ところが職揚では上司が代わり、義兄からは「今度の上司は前の上司のようにはいかない。欠勤だけはするな」と念を押されていた。でもその頃の自分は清掃局の作業員だけでは自分の人生終わらないとたかを括っていたのである。
 やがて都会生活に終止符をうつ第一回目の日が近づいているのも知らずに!

 第2部 アル中の進行具合

  第3章

 日曜日ごとのプロダクション通いで、アルコールの方は一時的に止まっていた。夕方5時に仕事が終わると、何をしていいか分からないほど時間が余った。とにかく義兄に借りたお金を返済するのにアルバイトを始めた。ある鉄骨屋で2〜3時間毎日働いた。もちろん職場には内緒である。ところが金に余裕ができると、またアルコールに手を出してしまった。以前より量が多くなり、アルバイトにも行けなくなった。内科の病院で薬をもらうようになっていた。夢と希望に燃えたプロダクション通いも、時々休むようになっていたが、ある時、テレビコマーシャルのエキストラと、日活映画の吉永小百合主演の「あヽひめゆりの塔」のエキストラを募集していた。自分も休みを利用して、一泊二日で参加することにした。
 新宿駅の西側に集合とのことであった。(後年、この新宿に住んで、アル中でのたうち回るとは夢にも思わなかった。)同じプロダクションの人は十人前後だったと思う。日活のバスに乗せられ、多摩川を渡り、登戸よりずっと北の方の山の中に連れて行かれた。ロケ現場は山を開墾でもしたような所であった。
 バスの中でボロボロの兵隊の衣服に着替えさせられ、バスから降りた。総勢百数十人のロケ隊だと聞かされた。その日は多少雨が降っていたが、カメラでは雨に見えないらしく、やぐらから消防のホースで水を降らせていた。地面は雨とホースの水で泥んこであった。
 沖縄の敗戦映画を神奈川県の山中で撮影するのか?自分の頭では理解できなかった。「ハイ!テスト、本番前、テスト、本番」と監督の声が飛び、同じことを何回も繰り返した。また「そこの兵隊さん、伏せて」と言われ、泥んこの地面に体を投げ出した。女優さん達もホースの水が降る中を走り回っていた。それにしても大変な職業だなあと心の底から思った。他人の仕事はよく見えると、昔の人が言っていた意味が身に沁みて分かった。「ハイ!その兵隊さん、このバケツを持って、向こうへ走って」と言われ、助監督が指さす方向へ走った。途中で斜めから防空頭巾の女性と交差した。何度目かに、その女性と衝突してしまった。「ごめんなさい。私、目が悪いの」とその女性が謝った。なんと吉永小百合ではないか。自分は何も言えなかった。休憩時間になると大勢の人達がサインを貰っていた。自分はサインを貰う気にはならなかった。自分もいずれ俳優になると思っていたからである。もうこの頃からアルコールで気が狂っていたと思う。
 養成所に入っても、有名人になるのは何万人に一人出るか出ないか。特に金集めの偽プロダクションではどうにもならない。夕暮れになってもロケは続き、敗残兵の長い列を作り、歩行させられた。その中に一人、背の高い人がいた。二谷英昭であった。映画の中ではさはど背の高さを感じたことはなかったが、傍に行くと見上げるほど大きい人だった。次の瞬間、自分の頭に衝撃が走った。夢と希望が音をたててくずれた。自分の身長は158cmである。背の低い自分が俳優だなんて、とんでもないことだと思ったからである。その晩は日活の大部屋に泊まり、翌日も同じ場所に連れていかれた。その日は晴天で、山あいからセスナ機が飛んで来たり、現場ではダイナマイトが砂を吹き飛ばし、重油が燃えたり、その中で日活の俳優さんたちが演技していた。夢が破れた自分は、一刻も早くその場から去りたかった。
 その後、プロダクションが本当に金集めだけの偽物であることが判明した。エキストラの日当を1円も出さないのである。その後、プロダクションには一度も顔を出すことはなかった。考えるまでもなく、練習場所はいつもある会館の大部屋で、会社は本当にあるものかどうか確かめるすべもなかったのである。でも自分達はまだましな方だと思う。最近はオーデションで入会金をだけを取り、姿のないプロダクションがニュースで放送されている。若い人達の夢を利用して騙すのは腹立たしいこと、この上もない。
 話はもどりまして、アルコールを飲むと仕事に出られない日が多くなってきた。義兄と共に事務所に呼ばれ、「今度、無断で欠勤をしたら、他の事務所に行ってもらう」と上司から言い渡された。その頃、ツケのきく赤堤灯が休みの日があった。仕方なく別の赤提灯に行った。その店もアパートからさほど離れてはいなかった。店に入ると自分好みの若い女性が一人だけカウンターの中に座っていた。まだ外は明るく、客は自分だけであった。お袋さんと二人で店をやっているとのことであった。意外に料金も安いので、今日は閉店まで飲もうと思った。ところが12時をすぎても店は閉まらず、客も数人いて、お袋さんも店を閉める気配がなかった。そろそろ帰ろうと思った時に、その娘に耳元にささやかれた。ピザを食べに行こうと誘われた。自分はピザなんて食べたことはなかったが、喜んで返事をした。時計はすでに午前1時を回っていた。
 少し離れたところにその店はあった。自分は食べ物は体に入らないので、ビールを飲みながらその娘がピザを食べるのを見ていた。店を出る頃は3時近くで、今日も仕事にはいけないと思った。裏通りを送って行く途中、後ろを歩いているその娘を振り返ると、いきなり抱きつかれキスをされた。アルコールと競馬に夢中の自分には初めてのことであり、びっくりした。それでも本とか映画で何となく知っていたつもりだったので、次の暗いところで自分からキスを求めて胸をもんだ。自分のアパートに誘ったらその娘はついて来た。しかしアルコールでボロボロの身体になっていたのと、初めての女性体験で、自分自身の体は役に立たず、その娘には散々なじられ、惨めな初体験であった。行き着けの赤堤灯で常連の客にその娘のことを聞くと、アルバイトの女子大生に自分の好きな人を取られ、それから薬中になったとのことである。次にその娘をアパートに連れてくるまでには、かなりの時間とアルコールと体力を消耗した。
 職場では上司から転勤の命令を出された。それでも自分は欠勤はしないからと、転勤は断ったのである。その娘と結ばれると、自分の物になったような気がして、言葉の使い方が分からず、乱暴な口調で話をした。その頃は女性との接し方がまるで分からなかった。一人の人間として愛情をもって接することを。
 次にその娘の店へ行った時、薬でラリっているところへ出くわした。なんとその店のお客さん達がみんなその娘とできていたのを知った。みんな遅くまで飲んでいたのは、そのチャンスを待っていたのであった。その頃の自分には金の都合もつかず、また、アルコールで体はボロボロで、仕事にも行けない状況にあり、遂に遺書を書いて自殺を計った。自殺は未遂に終わり、今現在があるのだが、職場からは人事の方が来て、遺書を見られてしまった。それでも穏便な処置で、依願退職という結果にしてもらった。今、振り返ると、その上司は厳しいのではなく、逆に、人間味のある方だったと思う。生きていけるように、環境を変えてくれようとしたのだったと思う。三番目の兄夫婦と提根の義兄夫婦には言葉では詫びようのない程、迷惑をかけて田舎に帰ることになった。今度は田舎の兄夫婦に同じ迷惑の繰り返しになろうとも知らず、電車に揺られていた。

 第3部 アル中の専門病院に入院するまで

  第1章

 田舎に帰る電車の中で、頬が痛いのに気付いた。前夜、直ぐ上の義兄に「自分の行動に反省しろ」と左頬を殴られた。頭にきたので右の頬もつきだした。酔っていた義兄は左よりも強く殴ってきた。その義兄は飲んでも静かな人だったので、余程我慢ができなかったようだ‥‥。(その義兄は今から10年前に亡くなった。)
 実家に帰る事については、田舎の兄から一つ条件が出されていた。「悪い友達とはつき合わないこと。」それが実家に帰る絶対条件であった。そうは言われても、「竹馬の友」であり、悪いのは自分も同じであった。
 季節は初夏の頃で、実家の前にある伊達家のお霊屋(おたまや)の緑がまぶしかった。神奈川から帰ってきたことに母は何も言わなかった。実家を出る頃も泥酔した姿をさらしていたので、多分、見当がついていたと思う。兄の話では、大分、耳が遠くなったと聞かされた。
 帰った当初、町立病院から肝臓の薬をもらってのんでいたが、2〜3ヶ月すると、体の不調も、都会での悲惨な生活も忘れてしまったのである。兄に、付き合うなと言われた友達と町で顔が合えば、知らぬ顔もできず、また飲み歩くようになった。しかし働いていなかったので、金が無く、体が悪くなるまでには至らなかった。酒代はもっぱら薬草摘みで捻出した。たいした収入にならないので、飲み屋さんに行くことはあまりなかった。その分、酒そのものは、1級とか超特級とか良い酒を飲んだ。うまい酒にはつまみがいらなかった。秋にはお霊屋の銀杏の木の下で焚き火をして、落ちている銀杏の実を火に投げ入れると、緑色の実だけが外に飛びはねるのである。それは酒のつまみには最高であった。しかし一升瓶でのラッパ飲み、また残った酒は道を歩きながら飲むので、狭い町ではすぐにうわさになり、実家の兄夫婦に知られるのはあっという間であった。
 稲の取り入れが終わる頃には、兄夫婦に就職をうながされた。自分もいつまでも遊んでいるわけにはいかないと考えるようになった。仕事は新聞の募集に沢山あった。その頃は若かったので、職安に行くこともなかった。何社か面接を受けている中に、アル中の方向を決定づける運命の職業に出会ってしまったのである。それは観光地のホテルの営業であった。(運命と思ったのは、ホテルとはアルコール類を売っている会社なのである。でもその頃の自分にはそのようなことは、知る由もなかった。)
 面接は合格で、一週間ほどの研修があった。ホテルの営業は、その頃は渉外と呼んでいた。温泉の性質、ホテルの設備と特徴、温泉街の名物、おみやげ、そして近辺の名所などを頭に入れ、詳しいことはファイルに入れて、毎日、飛び込みの営業であった。先輩の営業マンに要領だけを教わり、あとはお客様に恥をかいて自分の感覚でおぼえるしかなかった。ホテルの社名入りの車を一台ずつ貸与され、それを通勤にも使用できた。しかし後日それが災いとなるのである。
 仕事になれてくると、アルコール問題が顔を出し始めた。忘年会の晩に、車をガードレールに衝突させて使いものにならなくしてしまった。実家の町に降る雪と観光地の山の町に降る雪の量には大変な違いがあり、雪道の恐さを思い知ったのであった。自分の周囲の人たちには大変な迷惑をかけてしまった。しかし三ヶ月もして雪がとける頃には、その件は頭から消え、今度は道の両側にある、田んぼの引水用の溝に車輪を落とし、夜も遅いので、そのまま家に帰り寝てしまった。翌朝、他の車が通れず、大騒ぎする結果になったのである。世間の人たちはそれらのことをよく覚えていたのである。
 その世間のことに気付いたのが、見合いの話がきた時である。アルコールは飲んではいたが、仕事には毎日行っており、親切な方がいて、見合いの話が何回かあったが、ほとんど先方から断られる結果になったのである。一度、隣町の人で、自分の事を知らない人の時は、式の日取りを決めるところまで進展したことがあったが、結局は破談に終わった。兄夫婦が世間体を気にしていたのは、そういうことだったのである。しかしその頃の自分には、自分の姿を振り返ることもできなかったのである。
 ホテルの営業マンになって2年ほどの月日が流れた。様々なことが続いていたが、仕事にも慣れて、成績も安定していた。同時期に入社した営業マンが、他のホテルに移って三ヶ月も過ぎた頃に、「こっちのホテルの方がいいよ。良ければ移ってこないか」との連絡をもらった。私は何の抵抗もなくホテルを変えた。それには多少頭にきていた事があったのだ。
 それは宴会場の裏側に、古い卓球台の足が捨ててあり、宴会場係の大先輩に聞いたら、「どうせ捨てるものだから、持っていってもいいよ」と言われ、いざ車のトランクに載せようとしたとき、常務が通りかかり、「どんな物でも、会社の財産だから」と言われた事が記憶に残っていたのだ。そのホテルのオーナー陣は雲の上の人達であった。移ったホテルは営業会議はもちろん、営業も一緒に歩く気さくな女将さん達であった。人なつっこい自分はそのホテルに直ぐ馴染んでいった。
 しかし、飲む機会も非常に多く、営業会議の時は昼から飲む事もあった。ホテルの前には皆んなが行きつけの赤提灯の店があり、フロントからその赤提灯がよく見えるのであった。私は実家から通うのが面倒になり、町内に部屋を借りて、酒まみれの生活が続くようになっていった。又、ホテルの三階にあるバーを手伝うようになり、酒の量は増える一方であった。その頃はカラオケはなく、エレクトーンの伴奏でのど自慢大会をやり、私は司会を得意になってやっていた。お客さんからも、のど自慢大会の評判は良く、売上げも結構のびて、社長から、「下手な女の子を雇うよりいい」と誉められた。私はその頃フロントで働いていた女将さんの親戚の娘さんに思いを寄せていた。ところがある仲居さんがその娘さんに好縁談をもってきて、そのバーで簡単なお見合いとか、顔見せとかを行うとの話が耳に入った。その日のバーは多少混んではいたが、私は仕事が手につかなかった。のど自慢が始まるまではカウンターでジュースとかスカッシュとかを作っていた。やがてその御一行と見受けられる客が来た。良い所の息子という感じがした。仲居さんがついてきてカウンターから離れたテーブルに陣取った。私は気が遠くなるような気がした。フロントの娘も来たが、私の目の前に座り、ジュースを1杯飲み、そのテーブルには行かず、帰っていった。その縁談を断ったのだそうだ。しかしその後、女将さんから敵視されるようになった。私は好きになればなる程、何も言えなかった。二人になるチャンスはその娘さんから作ってもらったが、思いを告げることはできなかった。心から好きになるとそういうものかも知れない。そんな私に愛想がつきたのか、次ぎの縁談がきたとき、その娘は嫁に行ってしまった。
 私は本職の営業もできないほど肝臓が悪くなり、入院する事を再三繰り返すようになっていた。病院も慣れてくると、夕方にはカルピスに焼酎を割って飲むようになり、入院していても身体は良くならなかった。病院の中で酒?と、不思議に思われるかも知らないが、私のいた大部屋で、腹膜炎の患者の方に、朝晩看病に来る人がいた。その人が酒店に勤めていたので、みんながその人に酒を注文していたのだ。酒ビンは新聞紙に包み、ベッドの下に隠していた。だからその大部屋の症状の軽い人はみんな夕方には晩酌をしていたのである。午前中に点滴が終わると、あとは何もすることがなかった。ホテルの女将さんがそのことを知ると、時間がある時は営業に行ってくれと、ホテルの広告がついた営業車を病院の駐車場に置いていった。営業にも多少は行ったが、自分に貸与されている車には投げ網とか刺し網とかの魚取りの道具も積んでおり、夜中に病人が2〜3人、鮎とりに行ったこともある。ともかく病院中に悪評が広がり、婦長さんからも叱られた。何のために入院しているのか分からなくなって自分から退院する事にした。
 職場に戻っても相も変わらずの生活が続いた。その頃、ホテルに新しい支配人がやってきた。その支配人は人間味のある人で、私の酒の飲み方は人間を駄目にする酒飲みだから、断酒をした方がいいと言われた。私もその気になって酒をピタリ一滴も飲まないで過ごすようになったのだが、一睡もできず、2〜3日が過ぎた。そんな状況の中、いつもの3泊4日の出張に出発した。夏の暑い盛りであった。県外の営業のときはエージェント専門で仕事は楽であった。しかし花巻駅近くの旅館に泊まった時が睡眠不足のピークであった。隣の部屋から男と女の話し声がする。何時になっても止めないのである。トイレに行くふりをして隣の様子をうかがったが、誰もいるようではなかった。帳場で聞いたら二階は私一人だけと聞いて恐わくなり、車のキーを出してもらい、駐車場の車の中で眠る事にした。自分の車の前にもう一台が駐車していて、車を移動することができなかった。それが自分の命拾いと分かったのは、ずいぶん後のことである。ともかく車に乗り、眠ろうと努力したが、男女の声は止まず、徐々に自分を襲ってくる内容に変わっていった。私は周囲を見回したが人影はなかった。初めての幻聴に車の中でビクビクしていた。(車が動かせる位置にあったら、事故を起こして自分の命はなかったであろう。)
 夜がうっすらと明けてきた頃に車が一台駐車場に入ってきた。私はこれが自分を襲ってくる奴らと思い、車の警笛を鳴らし、「助けてくれー」と叫んでいた。駐車場の近くの人達がパトカーを呼んでくれた。私は旅館の浴衣のまま交番に連れて行かれ、事情を聞かれた。おかしいのは私の方で、朝の五時頃、ホテルの女将さんに連絡され、営業は中止で、当日にホテルに帰るように言われた。しかしホテルのオーナー陣も私の幻聴に気付かず、今度は一度も営業に行ったことのない関東方面の営業に出された。初めての東京方面の営業は酒こそ飲まなかったが、エージェントの場所も電車も分からず、ボロボロになって帰った。帰った後の旅費の精算には降参した。もう飲まずにはいられなかった。飲むと幻聴がひどくなり、いつもの病院に入院したが、普通の病院ではどうしようもなくなっていた。私は横浜の兄の所まで逃げていった。どこまで逃げても聞こえてくる幻聴に私は参ってしまった。電車のトイレで素っ裸になり、体中探してみたが分からなかった。横浜の兄の家に着いたが、私の様子が変なので、直に精神病院に入院させられた。幻聴が消えるまで、二十日間くらいかかったような気がする。その病院はアル中の病棟はなく、アル中と精神病の混合病棟であった。精神病の患者さんで長い人は二十数年も入院している人もいると聞き、私は驚いたし、自分ももう社会には出られないのじゃあないかとも思った。
 でも病棟で幻聴・幻覚の話を知り、もう絶対に酒は飲むまいと思った。約半年の入院生活だった。退院時に担当の先生に伺ったら、「身体にさわらない程度なら飲んでも良い」とのことだった。そして職場に戻ることができた。今度は営業でなく、予約係であった。予約係も慣れるまでは時間がかかった。しかし、私が退院してくるのを待っていたかのように、母がこの世を去った。私は酒を飲まずに葬儀を終えるまで参列できた。親戚の人達を乗せ、バックで家の裏まで出た時、酒と煙草を教わった先輩の家が真っ赤な炎に包まれて燃えていた。今からちょうど三十年前の事であった。

 第3部 アル中の専門病院に入院するまで

  第2章

 実家の兄も部落の消防団員であったが、あまり火事場が近い時は自分の家を守ることになっているとかで状況を見守るより仕方がなかった。その日は幸い風もなく、近所への延焼もなく鎮火したとの事だった。私は親戚の人達を送るので最後まで見ている訳にはいかなかった。後日聞いた話では、あの先輩が灯油に火をつけたとかの話であった。その先輩が家の中でどんな状況であったかは、大体知ってはいたが、何はともあれ、自分の育った家に火をつけるような人は、もう先輩でもなく友達でもないと思っていた。その先輩が私も十数年後にお世話になるT病院に入院していたとは夢にも思わなかった。その先輩を最後に見たのは、うちの田んぼを横切っていく後姿だった。その人は今から二十数年前にこの世を去った。糖尿病を悪化させたとのことである。私は未だ生きてはいるが親兄姉に及ぼした弊害は先輩と何等変わりはなかったのだと今は思える。
 母の葬儀も終わり一段落して私はホテルに戻った。ホテルの社長も葬式には参列して下さった記憶がある。ホテルには二人の姉妹がいて、お姉さんの方が商売が嫌いで嫁さんに出る話は聞いたことがあったが、その日は意外にも早くきた。当日花嫁衣装でそれぞれの人に挨拶をしていた。予約室にも挨拶に来られたが花嫁姿が呟しすぎて何の言葉も返せなかった。妹さんとは何かと話すことはあったが、お姉さんの方とはあまり話をしたことがなかった。
 予約の方も多少余裕が出てきて又夜のショウの司会をやることになった。酒も飲まずに舞台に立つわけだから最初の頃は自分でも何をしゃべっているのかわからない程上っていたが、ものの一週間も過ぎる頃には、お客様を笑わすことが出来るようになった。それは私の半年の入院中に十一階建の方が完成していて舞台が立派でお客様から離れていたので前よりもやりやすかったと思う。私の得意はショウの娘さんたちのお国がらとか、めずらしい物を図書館で調べてきて、さも自分が見てきた様に話すことである。お客様は酒が入っているので大概は喜んでもらえた。
 突然話はかわりますが、好きな人は嫁に行ってしまい私の心はポツンと穴が空いたような状態がしばらく続いておりました。変なうわさも流されました。そんな頃に売店兼コーヒーショップに23才の女性が入社してきました。コーヒーショップは皆の貯り場みたいな処なので直ぐに顔見知りになり一緒に飲みに行くようになってから、今度はアッというまに手を出していました。周りのうわさも手伝ったのかも知れません。やはりお互いにもう少し分かり合ってからの方が良かったのではないかと思いました。その女性の考えている事がさっぱり分かりませんでした。只気の合うのは飲むのが好きなだけでした。ホテルには飲み仲間が大勢いました。皆で飲むときは先に酔い潰れるのは男性陣でした。特に私の場合は飲んだくれた姿を見たら百年の恋も覚めると云われていたのでした。そんな訳で売店の女性も私が横浜の病院に入院してる間に嫁に行ったとかで病院から戻ってきたときはホテルにはいませんでした。又変なうわさが流れてる事は知っていました。それは誰だって酒で頭がおかしくなったと聞けば逃げたくもなるのが普通のことなのであった。ところが売店の先輩がその女性が別れてきて、今実家にいて、又売店で働きたいといっている。私さえ了解すれば今夜皆んなで迎えに行くという話を持ちかけられた。その夜の中に又結ばれたのだが私は正直いって女性の心は理解できなかった。その女性は自分の都合の良い時しか私に近よってはこないのである。嫌いなら別れようと云ったこともある。別の人と付き合うからと、そんな事を云うと私の居ない時に洗濯物をもってきて女物を干してみたり、予約室に腹が痛いがまだ保険証がないとか、甘えてもらうのは嬉しいので直ぐに面倒は見るのだが、そんな時以外は何処で何をしているのか分からない人であった。
 母が亡くなってから丁度一年位の頃私は連続飲酒に入ってしまった。ホテルも無断欠勤をし、経済的にもニツチもサッチもゆかなくなり又自殺を図ったのである。意識が戻った時は病院のベッドであった。実家の兄達が駆けつけたのは二日ばかり過ぎてからであった。実家では母の一周忌の法事をやっていたとの事で私の件はうまく伝わらなかったらしい。一番上の姉には死んだ母が未だ来るなと云っているのだと叱られた記憶が今だに残っている。その時も軽い幻聴が起きていて又横浜の病院に入院した。今度は二十日程で退院できた。しかし田舎へ帰る状況ではなかった。狭い町で自殺を図ったら職場復帰は無理なこと位自分で分かった。その頃は兄達も若く良く面倒をみてもらった。横浜の兄にどういう処で働きたいのだと云われ私はやはりホテル関係につきたいと答えた。ドライブ方々箱根方面に連れていってもらった。椿ラインを下り湯河原温泉に入った。鳴子温泉とは違い処々に古いホテルがあった。私は道沿いに建っているホテルを受ける事にした。兄も面接に同行してくれた。そこの社長が云うにはしっかりしたお兄さんがいるので採用しますとの直答であった。そのころのホテル、旅館の従業員は70%位が流れ者だった。一度横浜に帰り兄に大きなトランクを買ってもらい電車で湯河原に向かった。又関東の住人になってしまった。そのホテルはフロント兼予約になっていた。カウンターの中にデスクワークがあり会計の事務所は又別の階にあった。私には初めての形式だったが収容が三百人位の小さいホテルなので直に対応ができる様になった。従業員の人数はずいぶん少なかった。その訳は直ぐに分かった。ホテルの従業員食堂の食事の悪さが一つ、二つめはフロントに女性に異常な程執着する男がいた。まず従食だが朝はみそ汁とお新香だけ、昼は何も無いので食堂のおばちゃんに聞いたら、「ほらそこにラーメンの箱があるでしょう」と云われ見るとインスタントラーメンがあるだけ、それも自分で鍋で作る状態、夜は一品料理があるだけ。私もこれには参った。仲居さんがお客さんの残した品でも持ってきたのに出合えばましな方だった。そしてフロントの異常な男は常には立派なこと云っているのだがフロントに女性の若いマッサージ師とか、営業所の女性とか来ると仕事を止めてきて私には話もさせないのである。フロント兼売店に小柄な女性が入社してきた。早くもその女性にも手を出していた。独り者ならいざ知らず、所帯もちなのである。世の中にはこんな悪い奴もいるのかと思った。これでは従業員も長くはいる訳はないと思った。近くのホテルに川崎の兄が友達数人と泊まりに来ていて夜当ホテルに飲みにいきたいと電話があった。三階にバーはあったが営業はやっていなかった。注文は私が作ると云って支配人に開けてもらった。女性もいないので兄達は一時間程で帰った。支配人は代金はいらないと云ったが兄は二万円置いていった。支配人は自分の小遣いにしてと全額私にくれた。清掃の仕事とは云え、役所は良いとその時つくづく思った。それから私は間もなく連続飲酒に走った。自分の頭の中での弁解は食事の不満とフロントの先輩への不満、又、支配人は優しい人だがフロントの男の悪事を見て見ぬふりをしている不満が酒への拍車をかけた。ホテルの館内に住み込みをしているのに無断欠勤をし、せっかくオーナー陣にも信用がつきかけていたのに台無しであった。古川市も酒、鳴子も酒、今湯河原も酒でだめにしてしまった。
 トランク一つの渡り鳥になってしまったが、あの寅さん映画のように行く先を決めずに湯河原を出て行く訳にはいかなかった。私は休日を利用して伊豆の下田まで行った。まずは下田の観光協会にいき、従業員を雇ってくれそうなホテルがないか聞いてみた。町から6キロ程離れた高台にあるホテルが募集していると教えてくれた。私は早速、面接に行った。崖の斜面を利用してそのホテルは建っていた。5階建ての建物だが玄関が4階になっていた。私は玄関に入って驚いた。フロントの横のフロアーから伊豆の大島諸島が一望に見渡せるのであった。又、沼津方向から大島方面に航行する船がまるで絵画のように見えた。私にとって一生涯忘れられない風景であった。湯河原の山あいから出てきたせいで、特にそう感じたのかも知れない。人事担当の副支配人が私の履歴書を見て、自分と同県人じゃないかと云ってすぐ採用を決めてくれた。副支配人は仙台出身の人だった。私は喜んで湯河原に戻った。辞表を提出して一旦横浜の兄の処へ帰った。私は胸をときめかせて下田に向かった。
 いつもの通り職場に慣れる迄は酒を一滴も口にしなかった。そのホテルは500名収容で、社長の奥さん、副支配人、フロント課長、板長等をはじめ従業員は大勢いた。社長は東京に住んでいて、新宿にある東京営業所に毎日いるとの事であった。又、新宿にはキャバレーも経営しているとのこと。社長と奥さんの間には子供が出来ないので二号さんの方に子供を作ったとの事だったが、私には皆目見当もつかなかった。その頃は自分が新宿で酒でのたうち廻るとは夢にも思わなかった。湯河原で苦い思いをした従食は、賄いのおばさんでは無く、下田のホテルは調理場から板さんが来て作っていたので最高の食事だった。私が今迄歩いた職場で後にも先にない程の食事であった。しかし遅く行くと、仲居さん達が余った物と考えて家に持って帰るという状態で美味しくても、不味くても世の中思うようにはならないのであった。
 半年位過ぎて営業経験者の私は暇な時期にはエージェント廻りに出された。二人で行くので鳴子から比べたら楽な出張であった。副支配人が退社して新しい上司が入社してきた。その上司と二泊三日の出張にでた。仕事は何事もなく終わり、ホテルに帰る途中夕方だったので上司は自分の家で降りた。一寸待ってと云って家から箱入りのブランデーを一本持ってきて今日はご苦労様、これ飲んでと私に呉れた。私はこれは大変と思ったが寮に帰って一口飲んでみた。流石にVSOPは飲み口が良かった。もう少し、もう少しと思ってるうちに一本全部飲んでしまったのである。それから連続飲酒に入ってしまい金の続く中は、日中から下田の町を飲み歩いた。5日位飲んだくれて居たと思う。もちろん無断欠勤である。寮には食堂もなくホテルに働きに行かないと飯も食えない状況だった。朝、定時のマイクロバスに寮の人達が乗り込むのは分かってはいたが、未だひげも剃っておらずバスには乗れなかった。小銭が240円あるだけだった。寮の少し先に酒店があったのを思い出し230円のポケットウイスキーを買い一気に口に流し込んだ。残ったのは10玉一個だけ、知らない土地でこんな状態になって、さあどうしようと思った。(幸いにも湯河原の連続飲酒も、下田の連続飲酒も幻聴は起きなかった。起きる前に金が無くなったのである。)そうだ!ホテルで常用で利用してるタクシーを呼ぼう、残りの10円玉でタクシーを呼んだ。お金を一銭も持たずに川崎方面にお願いします。今はお金は無いけど兄から借りて払いますからと云った。運転手は「ああいいですよ」と云って呉れた。運転手はホテルがついているから大丈夫と考えたのだろう。私の心の中は横浜の兄にしようか川崎の兄にしようか迷っていた。横浜の兄はタクシーの運転手なので居ない場合があることを想定して川崎の兄を選んだ。高速代も立て替えてもらい、煙草迄運転手からもらって吸った。兄が留守だったらどうしようと冷や汗が流れた。私にとっては下田から川崎迄のタクシーの中は地獄のように感じられた。川崎の兄の家に着いたのは夕方で薄暗くなっていた。兄夫婦も手元の現金は不足で隣から借りて払って呉れた。二万七千七百円に三万払い、釣りはいらないと運転手に云っていた。お前は強盗と同じだと散々説教された。私には一生涯忘れることのない冒険だった。疲れて何も口に入らず、その日は寝させてもらった。川崎の兄の家と横浜の兄の家で体を回復させてもらい、私は性懲りもなく、今度は湯河原に向かった。
 湯河原も人手が足りないらしく電話を掛けたら再び採用して呉れたのである。まずホテルに着くと三万円前借りをして川崎の兄の処に送った。そして三ヶ月位して又連続飲酒に入り、今度は黙って下田に出ていった。下田では何処に消えたのと、快く雇って呉れた。しかしアル中が病気とはいえ、人に何故、これ迄に散々迷惑を掛けてしまうのだろうか、私自身訳が分からない。自分の心の中では常に良い子でありたいと思っているのに。(この後、下田でも同じ事の繰り返しで東京営業所に行く事になるのですが、次回に書かせて頂きます。)

 第3部 アル中の専門病院に入院するまで

  第3章

 今度こそ飲まずに働らこうと思ったが、月日が過ぎるとタクシーの件など頭から消えていた。その年の忘年会で、又、連続飲酒に入ってしまった。ホテルの一番多忙なお正月に、私は五日程、無断欠勤をしてしまった。前回のように逃げて行く訳にもゆかず、酒やけした顔で仕事に行った。若い上司に参々文句を云われた。東京から社長が来ているとの事だった。間もなく、私は社長の処へ呼ばれた。正月は客室が一配で、普段はガイドさん、運転手さんの泊まる裏部屋に居るとの事だった。その部屋に入ると、「君かね、アル中のT君は」、社長は浴衣姿で、日本酒を口に運びながら、そう云った。私が返事に困っていると、「私が君のアル中を治してあげよう」と、社長は云った。さらに「今直に断酒の誓約書を書きなさい」、それも墨で書けとの事であった。私は事務所に行き、酒のきれかかっている、震える手で誓約書を書いた。事務員達は社長自身がアル中のくせに、良くそんな事を云うよねえ、と悪口を云っていた。誓約書を書き終える頃には,私の額は汗びっしょりになっていた。その誓約書を事務所の一番見える処に張って置けとの事であった。
 それから数日後、社長が東京に帰る車の運転を頼まれた。私の体は未だ連続飲酒の影響が残っていたし、初めての東京行きには不安があった。普通道路は何も心配することは、ないのだが、初めての高速道路を走るのは、やはり心配だった。三島から東名高速に乗った。合流地点だけ余裕が無かったが、後は普通道路よりも走りやすかった。社長は程んどしゃべらなかった。只、首都高速に入ってからは、あっち方面、こっち方面と分岐点を教えて呉れた。夕方には新宿の東京営業所に着いた。営業所の人達を紹介され挨拶をした。これで解放されると思ったら、営業所で2〜3日エージェント廻わりをしてと云われ、私はがっかりした。横浜の兄の家から通う事にした。次の日から営業所の人とお得意さん廻わりをした。営業所の人のカバン持ちみたいな気持で歩いたので仕事は楽だったが、苦労したのは東京の人は足が速いのである。小走りに付いて行かないと迷子になるようだった。営業所の3日間はあっと云う間に過ぎた。下田への帰りは車だったか、電車だったか覚えていない。
 下田の冬は、さ程寒くはなかった。只、風の強い日が多かった。社長から頼まれた現地の予約係の人を世話して呉れと云われた話を思い出し、鳴子から房総の方に行った人を電話で探しだした。一度東京営業所で社長に会ってもらう事になった。社長は気に入ったらしく、返事はOKを出したとの事だったが、その人は現地に姿を見せたかった。誰でも冬場に職を変えるのは嫌だったのかも知らない。その人が下田に来たのは2月の末だったと思う。鳴子に居た頃よりも老けた感じであった。歳は私より上で、予約係専門の人だった。その予約係の人が現地に慣れる頃、又私は山梨出張に出された。今度は一人であった。昼食代と宿代を安い処にして、やっぱり夜は酒に走ったのである。一人になると、どう云う理由か酒に手を出してしまうにである。3泊4日でエージェントは必ず廻り終えるのだが、それと同時に自分の体も酒でよれよれになった。顔は酒やけで皮がむけ、又、口を開らくと唇が割れて血が出ると云う状態になった。只、金が無くなる前にガソリンだけは満タンにしていた。あのタクシーの件のような最悪の状況にだけは、なりたくなかった。
 ホテルに帰った私の顔を見て、若い上司はもう首だと騒ぎ出した。旅費を清算するにも手が震えて大変だった。予約係の人が東京に連絡したのか、社長から電話が来た。前と同じように「君のアル中は私が治してやるから東京営業所に来なさい」と云われた。仙台出身の副支配人も居ない今、現地は針のむしろであった。兎も角、トランクに衣類を詰め込んで新宿に向った。電車は混んでいたがトランクに座れたので楽だった。只、幻聴が起きないか心配だった。営業所に着いたのは夕方だった。社長から今後について、説明された。夕食は毎日社長宅に行って食べる事。寝る場所は2階の社長の休憩室の隣の部屋。その他1日1,000円で生活する事等であった。自分が住むと云う事で、あらためて営業所を眺めると、昔のしもた屋の二階建ての造りで、一階は応接室とトイレがあり、その奥の方も部屋があるようだが、使わないのか壁紙で仕切られていた。それは二階に上がって良く分かった。二階の事務所はかなり広く、その奥の中央に廊下があり、右側に2部屋、左側に戸棚類と物置があり、突き当たりに小さな炊事場があった。その日は、2号さんの運転する車で、社長と一緒に社長宅へ行った。2号さんは明かるくて、気さくな人だった。社長宅に着いて驚いたのはマンションも社長の経営との事で、2号さんは先づボイラーのチェックをしていた。そのマンションの少し先の並びには、元首相の家があると云う、有名な通りであった。食事を作る間にお風呂に入るように云われた。もう遠慮とかなんか考えている訳にはいかなかった。お風呂は洋式で映画で見るような、体を伸ばして入る長いバスであった。お風呂から上がって、食事が出来る迄、二人の子供達と遊んだ。子供達は小学校の四年生と五年生だったと思う、私は人なつっこい性格なので、子供達と直に親しくなった。近い中にザリガニを取りに行く約束もした。夕飯をご馳走になり、帰るバス停を教えてもらい、営業所に帰った。私にとって長い長い一日が終わった。翌日、朝一番に営業会議があり、私の営業範囲の割り当てが決まった。都内4分の1と横浜を除いた神奈川全部、又、山梨県全部であった。先づ困ったのが地下鉄であった。乗り換えと地上に出た時の感覚であった。同じ駅でも出口が違うと、方向が全々分からなくなるのであった。最初の中は地上を走る乗り物を利用した。都内を覚えるのに必至であった。乗り物を利用した金額は、日報と一緒に提出して翌朝に精算されるのであった。足で歩いた分は、コーヒー代とか、朝食代にすると先輩に教わった。
 あっと云う間に週末が来て、その夕方は社長の子供達とザリガニを取りに行った。懐中電灯を持って、子供達がザリガニが居ると云う処に行った。子供達は日中しか来たことが無いので、半信半疑の様子だった。暗くなると魚類は、あまり動かなくなる事を知っている私は、子供達のタモで、見つけ次第ほとんど、すくってあげた。子供達は大喜びであった。社長宅に帰ると、T君は魚取りが上手だねえと褒められた。社長宅に通うのは一ヶ月位で放免となった。
 私は小さなお勝手で自炊を始めた。風呂は営業所近くの大きな交差点の向かいの方にある銭湯に行った。半年も過ぎる頃には地下鉄も覚えた。又、神奈川も山梨も2号さんの車を借りて行くようになった。その頃には、少しずつではあったが、私の名前でお客様を送ってもらえる様に成ってきた。最初の中は営業所の人達に云われた、お客様が来ても貴方の力だけではなく、前に歩いた人達の努力があったからだと。所長には一生懸命にやれば、やる程叱られた、帰りが遅いと云うのである。それでも一度も利用した事のないエージェントから、お客様が来るように成ると何も云われなくなっていた。給料も全額渡して貰うように成り、ようやく営業所の一員に成った気がした。しかし、悲しいかな、アル中の病気が顔を出すのであった。夏の暑い盛り、山梨出張に出た。甲府市の駅前に駐車して二軒程、エージェントを廻って車に戻ると、駐車禁止の札が貼られていた。駅の交番にいくと、お巡りさんに云われた。「貴方の車は何度電車が来ても残っている」と、正味1時間位だったと思うが、運が悪かったと諦めた。暑い処歩いて駐車違反かと、やはり残念であった。その夜は駐車違反の代金を少しでも浮かそうと思った。それが仇となってしまった。旅館を素泊りにして、近くの食堂に行った。その店は食事も格安で酒類も格安だった。半年以上も断酒をしていたのに遂に手を出してしまったのである。そのまま連続飲酒に突入したのである。私にとっては山梨県は鬼門の土地であった。
 飲むとガソリンだけは、満タンにする癖が着いてしまった。後は金が無くなる迄飲んだ。エージェントだけは最後迄廻った。もう高速に載る金も無く、甲府から一般道で新宿に帰った。夜遅いと一般道も走りやすかった。翌日社長に呼ばれて「お前さんはどうしようも無いねぇ、また千円からやり直しだ」。社長はそれだけで後は何も云わなかった。飲むと会社に全然連絡をしないので、直に知られる訳であった。もうその頃は社長宅に行く事も無く、営業所前の大きな交差点の向こう側の銭湯に行った。又夕飯は営業所の小さなお勝手で自炊をやる様になっていた。だから銭湯の釣銭でワンカップを飲むような始末だった。営業の時は、なるべく歩く様にして、その区間の電車代を浮かして朝飯とかコーヒー代にしていた。それは他の営業の人達も同じである。又少し辛抱すると給料を直接渡して呉れる様になった。2号さんは社長よりも私の事を心配して呉れていた。兎も角、営業所の周囲は飲み屋街なのだからどう仕様もない状況であった。忘年会も私のいきつけの店でやった。上野でお花見をやった時も寒くて私の知ってる飲み屋で二次会を行なった。流石にツケの利く店は出来なかった。一寸行かないうちに経営者が代わっている店もあった。地下にある飲み屋などは朝の7時迄営業しているのである。「お客さん看板ですよ」と起こされて表へ出ると夏の太陽が眩しい時もあった。或る飲み屋の板さんとすっかり仲良くなり、休みには一緒に競輪に行った事もある。二日酔いのひどい時はみんなが出社する前に、早出の紙を机に貼り、近くの新宿御苑に行き開苑を待っている時もあった。御苑は広く、二日酔いを覚ますには最高だった。突然の雷雨でびしょ濡れになった事もある。デパート勤めか何かの若い連中が大勢きて繁みを利用して缶蹴りをしてキャーキャー騒いでいた。私はそれを見て羨ましいと思った。他の人達は健康的な事をして楽しんでいるのに、何んで自分は酒で苦しむのだろうと。体の調子が悪く成り、営業に行く前に近くの病院で注射を打ってもらう様になってきた。又口が思う様に開かず、日本女子医大附属病院の神経科で薬をもらったりもした。雨の日の二日酔いは新宿のプロムナードへ行き終日を過ごした。まるでプータローと同じ様な状態であった。営業所の鍵を落っことして一晩中、中に入れない時もあった。一番ひどい時は社長に呼ばれても、起きて行けない状態の時もあった。
 それでも社長は見捨てる事もなく、日曜日には社長の実家山梨の勝沼迄、子供達も乗って一泊二日の遊びに、運転を頼まれる事もあった。社長の実家は葡萄園をやっており、巨峰を沢山ご馳走になった事もある。子供達もすっかり慣れて、車の中でははしゃいでいた。社長の実家の話で思い出したのだが、山梨出張の時、反物を届けたことがあった。お返しにワインを一升瓶で三本預かってきたが、その晩に一升飲んでしまった。兎も角、新宿では飲み続けた。或る時は外でブラックアウトになり、気が付いた時は病院で頭を縫って貰っていた、その時はメガネも時計もなかった事もある。
 そんな暮らしが祟り、朝目が覚めると我慢できない程腹が痛くなり、いつもの病院に入院することになった。金も無く入院保障費を社長に借りた。二ヶ月位で退院したが流石の社長も飽きれて物も言えなかった様だ。或る時社長が全員を集めてポスター作りの提案を募った。私はホテルの全景を入れた風景に渚を走る水着姿の女性を大きな円で囲む案を出して採用された。そのポスターはきれいに完成してきた。社長は満足げであった。又ホテルの支配人を紹介すれば報奨金を出すとの事で、私は鳴子で酒を止める事を勧めて呉れた支配人が、鳴子を辞めた話を何処かで聞いたような気がした。あっちこっち電話を入れて探してみた。一週間位してその支配人から連絡があり社長に面接をして貰い、現地の営業部長に就任してもらうと云う事もあった。社長が何を考えているかは、私などには見当もつかない。或る日突然みんなで一度現地に行き、それから静岡、浜松方面に営業に廻って呉れとの事であった。その時の運転も私だった。免許を持っている人も居るのでしょうが誰も運転をしたがらない?社長もホテル迄は一緒だった。その頃の天城街道は未だ舗装道路ではなかった。車が通ると土埃りが舞い上がる状態であった。前の車が遅いので追い越そうとしたら、急にスピードをあげ追い抜かれまいとする。こちらは五人も乗っているので追い越せなかった。乗っていた人達はハラハラしたに違いない。その時は社長も乗っていたので誰も何も言わなかったが、浜松に泊まった時に所長にお目玉を頂戴した。しかも飲んでいる席である。私は黙って深酒した。仕事は営業所のキャラバンみたいなものだったので楽だったが、運転がきつかった。時々サービスエリアに入り顔を洗っては運転した。昨夜の深酒が効いていたのである。私一人であれば10分も眠れば頭がすっきりするのだが、皆んなの手前、仕事が終わると頑張って東京迄運転した。夕方には営業所に到着した。新宿では同じ事の繰り返しであった。
 とうとう社長に見放される日がきた。それは又腹が痛くてどうにも我慢できず、病院に行ったが、満床で別の病院を紹介され入院した。又社長に入院保障費をお借りしようと電話でお願いしたが、あっさり断られてしまった。私はどう仕様も無く、横浜の兄から送って貰った。私のアル中は止る気配はなく、遂に見放されたと思った。二年近くも醜態をさらしたのだから、もう別のホテルを探そうと心に誓って退院した。その頃他の営業マンも二人、それぞれ営業所を移る事を考えていた。私等の考えを社長に漏らしていた人がいた。社長にしてみれば見放しはしたものの、好きな時に運転手として使えるので手放したくはなかったらしい。そんな折、又下田迄運転を頼まれた。これが私にとっては伊豆方面の見収めだと考えていた。帰りは現地の大奥さんも一緒に乗った。私が一番不思議に思うのは大奥さんと二号さんが仲が良く、子供達も大奥さんになついて東京に行っても一緒に泊まって行くのである。二月の末頃だったと思うが、西伊豆の方は桜が咲いており、桜の花の向こう側には美しい富士山が見えた。私はこれが最後だと思うと涙が流れた。(今でもその風景の美しさは脳裏に刻まれている。)私は夕方みんなが帰った後に宮城の或るホテルに連絡をとった。そこには鳴子時代の大先輩が支配人をしていた。一度面接に来て呉れとの事だった。しかし今の状態では面接に行く金も無く次の給料迄待った。私の情報が漏れていたのか給料は渡してもらえなかった。面接に行ってないので辞めるとは云えず、飲み屋に付けを払わなければとか、サラ金に返さなければいけないとか言ったが全然相手にされなかった。
 見放されたとはいえ今迄面倒をみてもらったのだから、後足で砂をかける様な事はしたくなかったのだが、二号さんの前から労働基準監督署に電話を入れた。流石に二号さんも呆れ返った顔で給料を渡してくれた。こんなに辛抱強く面倒を見て呉れた経営者は後にも先にもいなかった。でもあの営業所を一歩外に出ると廻りが飲食店だらけの処なので、もう少し住んでたら私の命はなくなっていたと思う。
 東北新幹線には初めて乗った。仙台で乗り変えて目的地に向かったが、ローカル線は狭くスピードも遅いように感じた。到着時間をホテルに連絡していたので駅までホテルの車が迎えに来てくれていた。駅からホテルまでは三十分位離れていた。そのホテルは海の入江に建っていた。三百人程の収容のホテルであった。支配人が鳴子時代の先輩なので、面接どころか月一万返済で十万程前借りをして、新宿に戻った。社長夫妻には合わす顔もなかったので黙って失礼する事にした。新宿の常連になっていた飲み屋で軽く飲み東京を後にした。(その後間もなく久里浜にある病院に入院するとは想像もしてなかった。)

 第3部 アル中の専門病院に入院するまで

  第4章

 都会の雑踏の中から、宮城県でも一番端の方の漁業の町迄やってきた。ホテルの位置は、その町と隣の市の境あたりにあった。海辺の入江に建つホテルの周辺には、家も殆どなく一時気が抜けたような感じがした。最初はフロントの手伝いをした。そのホテルは下足を預かっているので、お客様到着と出発には従業員も経営者も区別が無い程の忙しさであった。下足の番号札と履き物との戦いであった。確か湯河原も私が入社した頃は下足を預かっていた。小さいホテルに限って変な処に労力を使うのである。とは云っても入社したばかりの私には何も言えなかった。
 又、そのホテルは結婚式にも力を入れていた。リゾートホテルと云うよりは、都市型のホテルのまね事をして、別棟には結婚の儀式を上げる建物まであった。田舎の方の結婚式なので、酔うお客様も昔の大トラの酔い方だった。そんな時に限って履き物の間違いが起こるのである。酔ったお客様が尚騒ぎ出すのであった。(なんて無駄な労力を使わなければならないのだと私は思った。)その後、部屋に小さい下駄箱を置き下足預かりは中止になった。一ヶ月も過ぎないうちに私の言葉は方言に戻ってしまった。特に浜の方は濁点の発音が重い感じがした。また、交通が不便な処なので送迎バスが何台かあった。県内のお客様の送迎、隣の市の終点まで来る電車のお客様の送迎と従業員の送迎である。私もお客様の送迎に何回か行かされた。一番驚いたのは、地元の結婚式のお客様の送迎である。送って行ったその集落が全部同じ名字(姓)だと云うのである。古来平家の落人が隠れ住んだという話しは本当かも知れないと思った。
 私もホテルに慣れて来て営業に出るようになった。県内は直セールスで市町村の農協、土地改良区、森林組合、商工会など、又は、町役場、市役所の団体を扱っている課、その他、組合と名前の付いている処は電話帳で探して、隈なく廻るのである。県内のエージェントも顔は出すが殆どが直セールスである。県内は主にオフシーズン、県外は旅行シーズンに廻るのである。そのホテルはお風呂こそ沸かし湯だが料理が喜ばれ、結構営業はやりがいがあった。或る町から一つの団体が来ると口伝へに良い評判が伝わり、人数は小さいが幾つもの団体が来て呉れた。又その頃は県外のエージェント廻りも処々にホテル、旅館の予約センターができて、その地方のエージェントを案内して呉れたり、又予約センターが企画をして、加入しているホテル、旅館の営業マン等が集合して、その地方のエージェント廻りをするのである。それをキャラバンと云うのであった。
 ところで私の酒は故郷の宮城にきたと云う安心感の性か、仕事も慣れないうちに飲み始めていたのである。栃木の予約センターに行った時は、私よりも若い所長が案内だけして呉れて、営業は自分がやらなければ成らず、所長の都合の悪い日は私一人で探しながら営業しなければ成らず、酒どころの騒ぎではなかった。ところが新潟の予約センターの時は行く前から連続飲酒が始まり、東北高速では20キロオーバーで捕まるし、新潟に着く迄吐きけがして大変なスタートであった。兎も角、夕方迄には予約センターの場所を確認して、駅周辺の旅館に陣どった。明日の事も考えて、その晩は飲まずに寝ようと思ったが、眠られずに結局は飲んでしまった。キャラバン中、体の調子が悪く最悪の出張であった。三日目に予約センターから一番離れた地域を廻った時に、その地域のホテルの方が今夜は当ホテルに皆さんお泊まり下さいと云う事で、キャラバン隊十数人全員がお世話様になった。新潟も端の方で、しかも山あいにあるホテルなのに鯛に似た魚の活き造りが出された。皆それには驚いた様子であった。そのホテルの方の説明では、外国の淡水魚を養殖して、このホテルの自慢の一品とのことであった。商いに努力をしている処は違うと思った。結局私の元気が良かったのは、その時の宴会だけであった。そのキャラバンで知り合いになった山形の或るホテルの営業部長に誘われ格安で泊めてもらった。体の調子は悪くなる一方であった。又地元の役場の観光課が企画した東北のキャラバンがあった。役場の職員、金華山航路の船の社長、金華山神社の社ム所の人、ホテルは自分の計4人のキャラバンであった。営業は船の社長と私で交代でしゃべった。その頃の私は営業には自信があり、船と金華山神社、そしてホテルの宣伝を要領良くまとめてしゃべった。船の社長も喜んで呉れた様子であった。1日目は新潟のことも頭にあり、酒には手を出さずに眠った。2日目にはキャラバンの人達も気心がわかり、社長が芸者を呼んで飲もうと云った。みんなも大賛成であった。それが4人も呼んだのである。1人に1人の割あいで芸者を上げたことは後にも先にもない事であった。流石に会社の社長は違うと思ったが、しかし割勘であった。次の日も懲りもせずに又芸者を呼んで私の財布は万歳をして、船の社長から借金する破目になった。でも帰る時には借金を奢ってもらう事になった。宮城県にいるというだけで私の心は安心感があり絶えず連続飲酒になっていた。
 ホテルの経営者のご家族は或る宗教の信者であった。私もこの宗教に入ればアル中が治るとの事で、その宗教の催しものに参加する事に成った。それは仙台支部からバス2台で夜の八時頃、大阪の本部に出発した。その宗教の本部の敷地は広大な土地であった。その敷地の一角に土の山があり、それを昔のもっこで二人一組でかつぎ100メートル程先に運ぶのだと言う。目の前が真っ暗に成って倒れる迄やれば何かを得られるという修行の場であった。二日程私も参加したが何も分からず帰ってきた。宗教では私の酒は止まらなかった。
 話しは変わるが次のオフシーズンのチラシの企画を頼まれ、私の考えたのは、酒と魚と台湾娘と云うタイトルであった。その頃のホテルは宴会のショウに台湾の娘さん達の民族舞踊ショウが流行っており、そのホテルも台湾ショウを得意としていた。そのチラシ作りの仕事を最後に私の連続飲酒は止まらなくなり、実家の兄に迎えに来てもらう程に職場の状況も体の具合も悪くなってしまっていた。実家に帰る途中に内科の病院に寄ったが断られた。しばらく幻聴は起きてなかったがこの時は起きた。この時の幻聴は恐ろしいものと楽しいもの、又悲しいものとか頭の中で世界大戦迄始まった。実家の兄夫婦はあっち、こっち電話で病院を探していた。横浜の兄が車で迎えに来て呉れた。実家の兄も同行して呉れた。その病院は神奈川の横須賀の方にある海の見える処であった。実家の兄も本当に苦労したのでしょう。もう病院から一生出てくるなと云われて、私はその病院に入院した。その病院はアル中専門病棟のある有名な病院であることを知ったのは随分後になってからである。

 

  「アル中の記憶をたどって」[4部〜]

  ホームヘ戻る

日本禁酒同盟のホームページ