アル中の記憶をたどって
[ 第4部〜 ]

 宮 城 県 ・ T            

 この文章は「砂時計」78号(平成10年8月)から掲載が始まった宮城県・Tさんの体験談です。
 
  [第1〜3部]はこちらです。

 第4部 アル中専門病院から自助グループ迄の道程

  第1章

 海の見える病棟に連れて行かれた。二階の病棟で、案内された病室はベッドが六床あった。どのベッドも布団、毛布、枕が同じ様にきちんと重ねてあった。その病棟には誰もおらず、シーンとして静かだった。洗面道具と入院用の荷物を置き、次に連れて行かれたのがビニール袋の作業棟であった。一つのテーブルに7〜8人で、ビニール袋に取っ手をつける作業をしていた。処々に看護婦と看護士の白衣姿があった。私も空いている席に座らされ、見よう見まねでその作業をした。まだ酒の抜けきっていない手は震えがきていた。頭の中では此処は本当に病院なのだろうかと思っていた。その頃は私の幻聴は止まっていた。ベルが鳴って作業が終わり、軽く掃除をして病棟に戻ったが、ベッドに寝る人は誰もいなかった。病棟の中間に広い部屋があり、テーブルとイスが結構並べてあった。その隣にナース室があった。自分の病室で荷物の整理をしていると、オーイ飯が来たぞと云う声がしたので病室から出てみると当番らしい人達が白い前掛けと頭に白い布を巻いて盛り付けをやっていた。夕食が終わって間もなく、自治会室と云う小さい部屋に呼ばれ、自治会の役員と称する人達から、病棟の規則とか当番の説明をされた。第一班〜第四班迄あり、又その外に作業班があるとか云われたが、病院に自治会があること自体が理解できなかった。兎に角朝6時起床、洗面、ラジオ体操、掃除、朝食、作業、昼食、作業かレク、夕食と、月曜から金曜迄スケジュールがびっしりと決まっていた。土日は一ヶ月以上経過した人は一泊二日で家に帰り日曜の午後4時頃迄に帰ってくると云うことであった。実家の兄に、もう一生病院から出てくるなと云われたが、そうも行かないと分かった。病棟の規則に慣れるまで一週間位かかった。作業班も4種程あることが分かった。通常の人から見ればどの作業もたいした事ではないのだが、入院している患者の頭で考えると、あの作業はつらい、この作業はきついと思うのだった。当時は農耕、園芸、機械、ビニールとあり、入院したての患者はビニール班で様子を見て振り分けるのだそうだ。多少本人の希望も聞いて呉れるとの事であった。又病棟の内容も分かってきた。体の状態が悪い人は西病棟で先ず治療を受ける。治療を要しない人は直接、東六か東一上に入院との事であった。東六病棟には長い歴史があるとの事だった。その頃は3ヶ月単位のサイクルで入院が回転しており、余程の事が無い限り3ヶ月で全員退院となった。忘れていたが、朝の起床一番ナースの窓口に行きシアナマイドを飲むのが一日の始まりであった。私はシアナを飲んでアルコールを口にした事が無いので分からないが、シアナが利いている時間中にアルコールを飲むと七転八倒の苦しみが出るとの事だった。又話しは変わるが、先輩のすすめで農耕班に入った。天気の良い日は病院の敷地内の散歩道の整地が主だった。農耕と云うから畑を耕すのかと思ったが、それは園芸班でやっていた。兎に角体を動かすことによって、体調が回復してくるのが分かった。雨の日はビニール班に行かされた。又1ヶ月に1回行軍があった。リュックに弁当とジュースを入れ20キロ位歩く日があった。これだけは天候に関係なく実行された。私の記憶では一度も雨に降られた事はなかった。
 あっと云う間に一ヶ月が過ぎて、私も外泊の日がやってきた。横浜の兄の処に泊まり、次の日4時頃に病院に戻ってきた。手荷物をナース室で検査されながら看護婦に色々話しかけられ、飲んでいるかどうかも確かめている様子だった。飲んで帰ってきた人がいると、その人の班で連帯責任としてトイレ掃除をさせられる事もあった。又1ヶ月過ぎは役員の交代で選挙があった。私も役員になったので分かったが一応選挙はするが前役員が役割を操作していたのだった。私はレク担当でその時の総務が仙台の人だった。千葉の木更津から来ていた人もいた。私はその時、此の病院は全国的な病院である事が分かった。又総務になった人とは仙台のT病院で後年遭遇するとは夢にも思わなかった。レク係は行軍の担当もしていた。歩くコースを書いて貼ったり。スナップ写真の担当もやった。東京を歩いて営業していた性か、行軍の先に行って写真を撮ったり、後ろの方から撮ったり足が自由自在に動いた。三浦半島はハイキングコースが幾らでもあり、行く度に違うコースだった。
 何しろ20年以上も前の事で順序が逆になったかも知らないが、自分の酒歴を発表する時間があった。みんなは5分位で終わったが、私は生まれた地方から順に話しをした。順番があまり違わない様に年だけは紙に書いていた。40分程話したと思う、その酒歴発表会は当病棟の先生だけではなく、東六の偉い先生も一緒に聞いていた。話しが長すぎて何か云われるのかと思ったら、良い酒歴発表でしたと言われた。又週に一度勉強会があり、アル中の内蔵の状態と脳の状態について教えられた。脳の話については驚いた、通常の人よりも脳が縮んで頭がスカスカになると云うのだ。実際CTのある病院迄行き頭の断面図を撮ってもらった。後日写真を見ながら説明されたが忘れてしまった。又月に一度断酒会の方が来て、自分の経験を話して呉れた。その中で記憶にあるのは、きれいな女性の方が失禁した話とか、悲惨な状況だったことを大勢の前で平気で話していた。その時は何故そんな恥ずかしい話をするのか理解できなかった。私なら一生隠しておきたい様な事を?。前総務の人が自由時間を利用して、東六病棟の前にあるような見晴らし台を作ろうと云う話を提案してきた。その頃の東一上病棟の前は松の大木と雑木、下は笹やぶだった。農耕班が中心となって行う計画だったらしいが自分の退院迄に完成させたかったのだと思う。最初はどうなることかと思ったが、形が見えてくる頃は全員が参加して下刈を行った。思ってたより早く完成した。東六の見晴らし台より高い処なので、それは素晴らしいものだった。以後退院式はその見晴らし台で行った。
 私も3ヶ月が近くなり、行く処もなく困っていた。その頃院外生と称して病棟にはいるが自治会と関係なく、毎日弁当を持って外に働きに行っている人が4人程いた。私もワーカー室に行って相談に乗ってもらった。その結果私も院外生となり、弁当を詰めてもらい、2ヶ月程土木会社で働かせてもらった。前の先輩が二人、退院したので二人の空きがあった。私と同期の人と先輩二人の計四人であった。病院もその当時は色々なことを模索していたのだと思う。後から知ったのだが私と同期生だけ生き残り、他の先輩四人は飲んで亡くなったと云う事だった。それ以降院外生の制度はなくなったと云う。兎に角飲めば死ぬと云う事を頭にしっかり入れて生きて行こうと思った。その五年後に再び入院するとは頭の片隅にもなかった。

 第4部 アル中専門病院から自助グループ迄の道程

  第2章

 病院を退院してから結構日数が過ぎた。何の職に就くか迷っていたのである。横浜の兄から連絡がいったのか、田舎の大きい姉から手紙が来た。早く就職して、横浜の兄にあまり迷惑を掛けないようにとの事であった。横浜の兄の処は、子供が4人もいて、そろそろお金のかかる時期に来ていた。私は一番危険な職安に行った。近くにはドヤ街があるので、兄も注意するように云っていた。しかし横浜の病院に入院したときに、ドヤ街の住人と一緒に入院生活をした経験があるのでさほど気にはしていなかった。私はやはり営業職を希望して、或る食品会社に紹介状を書いてもらった。その会社は落花生の加工販売している会社であった。社長も人事の方も良い感じの人達であった。面接は合格で出社日も指示された。今迄経験した事のない業界なので、相当の努力を覚悟して出社した。先ず困ったのが卸しの基本である内掛けと外掛けの違いを理解する事であった。横浜の兄が都会に出る前は菓子問屋にいたので、兄から教わって解決した。(今は全く忘れてしまった。)又ピーナツ製造で恥をかいた。営業は恥をかいて覚えるものであった。横浜の工場は詰めるのが主で、製造の過程は千葉の工場にあった。営業に出る前に勉強するのが今迄の常識であった。業界が変わると勉強する暇など無く、お得意さんを廻るのが先決であった。しかし、お得意さんも顔馴染みになると変な質問はしなくなった。
 働きはじめて3ヶ月過ぎた。いつ迄も兄の家にお世話になってる訳にも行かず、部屋探しを始めた。会社が京急線沿いだったので京急線の延長上であれば、何処でも良いと思い、会社の車を借りて、部屋を探した。しかし車で探したのが誤りであった。今思うと何であんなに会社から離れた処を選んだのか考えられない。それに車だと坂道の勾配があまり感じられないのであった。部屋の準備が出来て、いざ通勤を始めて分かったのは部屋から駅迄が急な坂道であったのである。朝は下りなので楽だったが、帰りは仕事で疲れてる足では、此の坂道は登り切れなかった。処々で休憩を要した。他の人もきついようではあったが休む人はいなかった。それに借りた部屋が二階建の下であった。川崎の時は二階建ての下だったが飲んだくれており全然気にもならなかったが、今は素面である。借りた当時の夫婦は物静かだった。半年程は平穏な日が流れた。仕事も順調であった。ところが二階の夫婦が家を建てたとかで引っ越して行った。十日間位は本当に静かな日が続いたのだが、ある日突然二階の物音が凄いのである。若い夫婦が越してきたとかで注意する処の騒ぎではなかった。窓から毛布をほうったり、下に人が住んでることなど関係ない風だった。自分の頭に二階が載っている風に思えた。毎日がうっとうしく感じられた。その時思いついたのが会社の2階の更衣室であった。それに会社にはお風呂もあった。更衣室はパートのおばちゃん達が、白衣に着がえるだけであった。そうだ、あの部屋に住まわせて貰おうと思い、翌日社長に今の状況を説明した。あんな処で良ければと云う返事が返ってきた。早速引っ越してきた。西浦賀の部屋には1年も住まなかったと思う。会社の部屋に住むようになってからは、時間もお金も多少余裕が出て来たがアルコールには一切手を出さなかった。外の従業員はビールとか酒を買ってきて飲みながらマージャンをしたりする事もあったが私はコーラで平気だった。線路を挟んで隣には高層マンションが建っていた。マンションの一階はスーパーとパチンコ店であった。買い物は便利、遊びも便利で何も云う事はなかった。その頃はパチンコにもあまり熱中しなかった。横浜の兄の子供達にも小遣いをやったり、今迄見たこともない様なクリスマスケーキを買って行ったり、又コタツが調子悪いと云うので直に買い代えてやったりもした。又お得意さんの接待で船釣りも覚えた。最初の頃はみんな釣れるのに坊主が続いたが、船酔いになれる頃は結構釣れるようになった。天気の良い日は釣りで天候の悪い日はパチンコで休日を過ごした。社長の息子さんも釣りが好きで何度か一緒に連れて行った。社長の御家族とも親しくなり、社長宅でカラオケ大会とか、マージャン大会にも呼ばれるようになった。又投網を買って三浦半島で黒鯛の50センチ前後の大きいのを二枚も一度に取ったこともある。千葉の工場に皆で遊びに行き、夜中に川に行き舌びらめを取った事もあった。酒を飲まないでいても結構楽しく暮らせる事を覚えた。しかし良い時は長続きしなかった。
 その会社に入ってから3年半程過ぎた頃、今度は田舎の大姉の長男が先物取引に手を出して失敗し、大変な借金ができたとか、横浜の兄を通して金を都合して呉との連絡があった。返ってくる金なら30万、返ってこない金なら15万と返事をした。困っているので30万貸して呉との事だった。私も兄姉には再三迷惑を掛けているので黙って30万貸してやった。私の手元には幾らも残ってはいなかった。その金は私の手には1銭も返っては来なかった。田舎の姉は横浜の兄に全部返したらしいが、多分一度に30万返したのではないだろうと思う。横浜の子供達は金のかかるピークに達していたのだと思う。その翌春には一番下の子が高校には受かったが入学金が無いので何日迄に5万振り込んで呉とか、兄の家に寄れば1万貸して呉と云われて財布に1万迄ないのでキャッシュカードを渡したら5万全額引き出して残が0円に無っていたり散々であった。面倒を見てもらったので文句も云えずにいたのだが、極めつけが仕事中に電話がきて、サラ金に追われているので10万程次の口座に振り込めという話しであった。丸で私が借金しているような云い草だった。流石に私も頭にきた。この10万で後は一銭も借さないつもりで振込んでやった。
 その頃会社でも異変が起きてきていた。一生懸命働いている私に上司が凄い猜疑心をかけてきたのである。理由が分からなかった。多分この前の慰安旅行で製造部の次長とパートのお姉さんと良い仲になったとか噂をきいた事はあった。度々どちらの御家族も会社に来ては何か話してはいたようだったが、丸っきり家に帰らない訳ではなかった様だった。しかしそんな折りに私が女性の何処を■いじつら■良いか冗談を云った事がある。それを云ってから二人共丸っきり会社にも家にも帰らなくなったと云うのである。思い当るのはそれ位いしかなかった。その上司の猜疑心は社長とか、経理部長迄影響を与え始めた。近くの八百屋兼食堂迄いいふらしていた。私が一体何をしたと云うのだ。親戚関係の小さな会社でそんな事をされたら私の立つ瀬はなかった。夕方仕事が終わっても帰りたくなかった。私は遂に我慢が出きなくなってきた。頭にきたので平日に今日は体の調子が悪いので休ませて下さいと云い、洗面道具を紙袋に詰めて会社を出た。真直に銀行に行き、預金を全部引き出した。兄にも会社に愛想が尽きた。こんな都会はおさらばしようと思って電車に乗った。途中電車を降りて旅行カバンと上着の暖かそうなのを買って着替えた。もうこのまま田舎に帰ろうと思った。もう酒を止めてから丸5年が過ぎていた。東京駅に近づいた頃、もう一生涯都会に出てくる事はないと思った。ふと頭に浮かんだのは新宿で飲んでた頃が懐かしく思えた。よし田舎に行く前に三日だけ飲んで帰ろうと思った。急遽中央線で新宿に向かった。先ず新宿の寄せの隣の養老の滝でビールを飲んだ。5年振りに飲んだそのビールは天にも昇るように心地良く美味しかった。電話を借りて会社にこう云った。私はアル中で今日酒を飲んでしまったので止めさせて頂きますと、電話の向こうで何か云ってたようだが受話器をガッチャリ置いた。胸のつかえがすーっと消えた様な気がした。その次に隣の寄せに入り歌奴師匠の舞台に近づき御祝儀をやった。背を向けて席に着こうとする私にあのお客様は神様でございますと声をかけられた。客席がワーッと湧いた。その後旅館に荷物を置いて夜の新宿に飲みに出た。三日飲む処が何日飲んだか分からない。気が付いた時はカバンも無く、横浜の兄の近くの公園で子供達の早朝野球を見ていた。コートには吐いた後があり、眼鏡は薄す汚れてプータローと同じであり、震える手にはワンカップを握りしめていた。兄の家迄歩いて行った。兄は私の姿を見て又入院だなと一言云った。海の見える病院、今度は重症患者の入る西病棟であった。

 第4部 アル中専門病院から自助グループ迄の道程

  第3章

 点滴の雫を見ながら、新宿で飲んでブラックアウトの状態を考えていた。田舎に帰る事が念頭にあったので、あまり値段の高い処には行かなかったはずだ。飲む前にお金を4ヶ所程に20万づつ分けて隠した。財布には5万位しか入れてなかった。上着のポケットも一寸分からないよう内ポケットがあり、そこの金だけでも残っていなければならない筈なのに、その処は剃刀のような傷があり、その傷口からは取り出す事は出きず、私の上着をゆっくりと点検したと云う感じがした。財布も無く80万以上の金が殆どなかった。只ワイシャツの胸ポケットに10万だけは残っていた。これからどうしようと思った。会社からの退職金も当てには出きなかった。辞めた状況が状況だけに。(今なら上司の猜疑心を別の形でかわす事も出来たと思う。)あの頃は仕返しの意味もあったのだ。一週間程して経理の部長が御見舞いに来て呉れたが、私は急に辞めた事を謝った。その部長も上司の猜疑心については、何も触れなかったが、何の根拠もない事を理解して呉れてた様子だった。結局その見舞金1万円で会社の関係は終った。私はそこの親戚達だけが高い給料を貰っているのを見て見ぬ振りをしていたのだ。しかも後から入社してきた、口先だけの営業マンにも、私よりも遙かに高い給料の事も含めての今回の爆発だった。もう頼のまれても戻る事はなかったろう。
 5年前に入院が一緒だったS.Oさんが同じ部屋に入院してきた。私を覚えている様な、覚えていない様な素振りだった。昨日運動会で足を痛めたのだと云う。私はその時は何も気付かなかった。次の日、昨日崖から滑り落ちて、足が痛くてと云いだした。どうも頭の方が可笑しいと思い始めた。その夕方S.Oさんが、この旅館の帳場は何処だと云いだした。胸のポケットに隠し持っていた千円札を出して、ワンカップが欲しいんだと云うので、ナース室を指して、そこが帳場だよと云ったら痛い足を引きずりながら入っていった。私も後から付いて行くと、看護婦さんにお金を出して、これでワンカップを買えるだけ下さいと云った。看護婦さんも慣れたもので今夜は遅いから明日にしてねと答えた。流石に私も涙を流して笑ったが、酒の恐ろしさを眼の当たりにかいま見た気がした。又次の朝、浜から売りにきたカニを此処に置いていたのにお前何処にやったとか、とうもろこしを買っておいたの何処へやったとか、全々会話にならなく成ってきた。二日程して院長先生が他の病院の先生方を連れてゾロゾロ部屋に入ってきた。難しい病名で忘れてしまったが、S.Oさんを説明していた。
 私も点滴のお陰で二人部屋から大部屋に移された。西病棟の前は砂地で処々に桜の木が立っていた。出入りも自由で悪い奴は酒を買ってきて、砂に埋めていると云う話も聞いたが、私はそれ処ではなかった。今後どう仕様と頭を痛めていた。或る人は布団迄売って飲んだとかで、東京の助成館に行く予定だとか云っていた。二十日程過ぎて私は東一上病棟に移された。その頃は患者が多すぎて2ヶ月サイクルに成っていた。一回入院した人は役員に成る事はなかったので楽であった。その病棟で前回入院が同じ人に又遭遇した。その人は横浜のお茶問屋の若旦那と云っていた。着てる物からして違っていた。煙草も立派なケースに入れ、私など見た事もない洋もくを吸い、ライターはダンヒルの金ピカの物だった。きれいな奥さんが入院の手伝いをしていた記憶があるが外泊の時、飲んで亡くなってしまった。酒の恐ろしさを又経験させられた。
 私は2ヶ月が近くなってきた時に、又ケースワーカーの方に相談に行った。東七上病棟に移って、そこから退院迄に仕事を探しなさいと言われた。東七上病棟に移ってから毎週木曜日に横須賀中央にあるAAグループにみんなで通った。ハンドブックを読み、司会の方は良くしゃべる人だったが私には何を言っているのか珍粉漢粉であった。週に一度そのミーテングに出席したが何も分からなかった。それよりも東七上はアル中と精神の混合病棟でそこの総務にさせられた。アル中だけの病棟よりも一寸大変な気がした。夏の暑い頃に盆踊り大会があった。私は盆踊りを踊りながら何故か涙が流れて止まらなかった。今度こそ絶対に飲まないと心に誓っていた。
 退院の前に仕事を決める為、病院から許可を貰い、宮城の、例の浜にあるホテルに面接に行った。以前の経営者の御家族はもういなかった。私が勤めていた頃の乗っ取りグループがお偉ら方に成っていたのである。半年も働いて呉れれば直ちに課長にしてやるよ、又貴方の作った酒と魚と台湾娘の企画を今でもやってるとの事で一応面接は合格した。その晩はそのホテルの一番良い部屋に泊めてもらい出社日を決めた。(もちろん病院の退院日に合わせた。)もう横浜で就職する気はなかった。延長の2ヶ月を終えて私は退院した。冷蔵庫、テレビ、コタツ類などの家具は兄の家に預け、衣類だけトランクに詰め、コート1枚、スーツ2枚、ワイシャツの新品3枚をダンボール箱に詰めて宅急便で浜のホテルに発送した。最後の傷病手当の書類の分だけ認めの印鑑と一緒に兄にあげた。今度こそ素面で田舎に向かった。ホテルに着いて一晩だけはお客様だから客室に泊まって呉との事だった。それから従業員の部屋に案内された。部屋は相部屋との事だった。今迄相部屋の経験がなく嫌な気がした。翌日の早朝、前の支配人の頃から働いていた仲居さんに前の支配人から電話だと耳打ちされた。電話に出ると、このホテルの隣町にあるホテルで支配人をやってるので是非来て欲しいとの事だった。私は迷った。面接に来た時も昨夜も面倒を見て貰い、どうすれば良いのか。寮が相部屋のことが頭をかすめた。その支配人は続けて云った未だ早朝なので皆出勤する前にタクシーに乗って来て呉と、私の心は動いた。支配人には思議があった。タクシーを呼んでホテルの近くから呼ばれたホテルに向かった。そのホテルも下田のホテルの様に町から数キロ離れていた。半島の先端にあるので景観は最高だった。面接に行ったホテルから再三電話があったそうだ。私は客室に泊まらされた。支配人の考えは面接に行ったホテルの連中を警戒しての事だと思う。しかしダンボールで送った衣類は諦めねばならなかった。ほとぼりの冷めた頃に従業員の寮に行った。多分支配人もあの乗っ取り連中に仕返しの意味も含めて私を引っぱったのではないかと思われる。仕事が慣れる迄はフロント兼予約もやった。このホテルも300名程の収容であった。小さいホテルはなんでもやらなければならず、従業員の送迎もやった。近くの観光名所をファイルにいれて、いよいよ営業に出る事に成った。営業は半島の先端から出て行く訳で県内の営業でも泊まりがあった。国道4号線の外側は泊まりである。暫くホテルの営業から離れていたので、慣れる迄恥のかき通しであった。観光名所は頭に入れたものの、漁業関係の魚貝類の収穫時期迄は頭が廻らなかったのである。ウニ、ホヤ、アワビなど漁の時期がかなり違っていた。釣り船の予約などもそうであった。ホテルの経営者の本業は海産物屋であった。観光船と漁港の町でお土産の海産物店をやっていた。そんな訳でやっぱり料理の評判が良く、お客様は一度来ると同じ町から次から次であった。一番多い町では17団体も来て呉れた。セールスがオフシーズンは楽だった。お土産に冷凍のサンマをきれいなダンボールにパックしてあり、解凍すると刺身で食べられるが、凄いセールス効果であった。
 ある時4号線を越えて、大きい姉の家がある地域に入った。暫くぶりなので姉の家に顔を出した。姉に小遣いとして5万円をやった。処が姉の家の金の問題は未だ解決していなかったのである。現在金が幾らあるんだと聞かれホテルに帰れば50万程あるけどと云ったら、直ぐにその50万を貸して呉と云われた。それが嫌で横浜の兄の処から退散してきたばかりなのに…。身内の事で断る訳にもいかず、泊まりの予定である地域から一旦ホテルに帰り、翌日50万届けた。姉は数えもせず金をしまった。私は一体何故こうなるんだと思った。その方面の出張は縁起が悪くなった。その奥の町に泊まった翌朝、水虫からばい菌が入ったらしく靴が履けない程足が腫れて痛んだ。旅館からスリッパを借りて病院迄行ったが、これは切開しないと治らないと云われ、営業を中断してホテル迄帰り、漁港町の外科で足を切開して膿を出してもらった。忽ち足は回復した。しかし又々懐の淋しい時に突入した。やはりトランク一つの渡り鳥には多少の貯えが心の支えなのである。アル中は何が原因で飲みだすか分からないもので、その心のわだかまりと別の事が重さになったときに私は又、酒に手を出してしまったのである。
 オフシーズン廻りは県内は殆どと云って良い位廻った様な気がする。今迄は仙南地方には足を運んだ事はなかったが、今回は丸森町、角田町、白石市、蔵王町、川崎町迄廻ったが、流石に仙南の方からは団体のお客様は来なかった様な気がする。県内でも遠くの方はエージェントに頼るしかないのか‥‥。一回目の県内の直セールスは終わり、岩手県に入った。本当は県外はエージェントだけでも良かったが、一関界隈迄ならマイクロバスの送迎が利くので組合関係も廻ってみた。
 その日は雪も降ってきたので早めに泊まる処を探し、衣川村にある国民宿舎に宿泊した。フロントで、そこの支配人とオフシーズンの対策について話し込んでしまった。「食事の用意が出来ました」と、食堂の係りの方から呼ばれて、それではお世話に成りますと、支配人に挨拶をして食堂に行って見ると、こちら支配人からですとお銚子が三本も出ていたのである。一瞬ためらった。私はアル中なんだと、お銚子を横目にご飯を食べ始めたが、三本とも手をつけずに返したら、折角の支配人の好意を無にする事ではないか、一本だけ頂いて、後の二本は返そうと正直にそう思った。悲しいかな一本飲むと前の考えは微塵もなく二本が三本と進み、ビール迄注文している自分があった。その時に自分の心にした言い訳は、出張した時だけ飲もうと思った。あの海の見える病院で盆踊りしながらもう絶対飲まないと涙を流したのが遠い過去になって頭から消えていたのです。その出張だけで一応酒は止まっていた。オフシーズンも終わりいよいよ県外出張の時期になった。此のホテルの県外のお客様は主に秋田県の様だった。千秋ラインの開通を待って、秋田出張に出かけた。ホテルからの半島の道程は新緑が眩しい程きれいだった。何かが起きそうな気がした。千秋ラインは鳴子の橋を渡って行くのだが100メートル位手前に看板が出ており、千秋ラインは工事中の為通行止めになっていた。半島の先端から此処迄きて営業中止にする訳にもいかず、新庄廻りで行く事にした。新庄から先は真室川迄しか行った事はないが、道はかなり走りやすかった。予定よりかなり遅れたが雄勝、十文字、湯沢とエージェントを探しながら廻った。しかし、秋田の残雪は物凄かった。宮城の浜の方から比べると想像も出来ない程であった。その日は湯沢駅周辺に宿を取り、足元に残雪のある中飲みに出た。営業の時は秋田弁はあまり気にならなかったが、赤提灯では言葉があまり分からず早く帰って休んだ。翌日は横手、大曲、角館と廻った。角館に泊まって、そこでも飲み屋は気に入らなかった。よくそんなに飲み屋に行く金が続くなあと思われるかもしれないが、県内出張で田んぼのあぜ道で弁当を食ったり、おにぎりで昼飯代を少しずつ貯えていたのだ。ホテル旅館勤めは三食出る訳で、当然昼飯代を浮かすのである。
 次の日は秋田市内を一日中廻った。泊まりは市内の北の方に宿を取った。タクシーを呼び運転手に何処か良い飲み屋さんはないか訊ねた。良心的な店を紹介すると云われ、その店に行った。建物全部が飲み屋で、一寸間違うと別の店に入ってしまう様な処だった。その店のママは歌声が吉永小百合にそっくりであった。私はようやく探し求めていた店に出会った感じがした。そこは秋田で有名な川端であった。かなり呑んで記憶が処々無かった。それでも翌日は東能代、能代、大館と廻り、大館に泊まったが、流石に飲みに行く元気は無かった。酒は飲んだが仕事は一軒残さず全部廻った。半島のホテルの近く迄帰っていったが酒を止める自信は無く、かなりの量の酒を買ってトランクに積み、自分の寮の裏側に隠してから、ホテルに入っていった。日報を書き、旅費を精算して早く自由になりたかった。しかし支配人はそれに気付いていたのかも知れない。寮の裏から酒を自分の部屋に運んでくると連続飲酒に成ってしまい、館内の部屋に居ながらにして無断欠勤の始まりであった。直ちに実家に連絡され、実家の兄に連れられて仙台のT病院に入院となった。
 T病院のI先生は自分から酒を止めたいかを確認された感じがするが頭がもうろうとしており、定かでない。保護室に三日程入れられた様な気もする。治療で一週間程点滴を受ける頃には病院の様子が分かってきた。内容は神奈川の海の見える病院の方式だと云うが作業が丸っきりない。私には生温い感じがした。方式が同じであるなら退院したいとも考えていた。今回はホテルと首が継っていた事もあって、そう思っていたのかも知れない。治療室が一杯とかで、私は別の小部屋に移された。入院用の荷物を選び、荷物の整理をした。何分もしない中に看護婦さんが来てこの部屋も治療室に使うので又別の部屋に移って呉と云われた。遂に私の頭は切れた。患者をこんなに邪険にするなら退院すると云ったら、先生に云って呉と云われ、私は顔色を変えて先生の処へ飛んで行った。その旨を云った。先生は「貴方は入院するときに三ヶ月間やると云ったではないのですか」と静かに言われたが、私の怒りは止まらなかった。明日退院しますと云ったら「退院するなら今しなさい」と云われ、益々頭に血が上り、荷物を紙袋にねじ込み、会計に行き退院した。(アル中は酒を飲むだけが病気ではなく、感情のコントロールが出来ないのも病気の主である事を理解する迄は相当の年月を要した。)タクシーを拾い、一路ホテルのある半島へと向かった。タクシー代は伊豆の時と同じ位の料金だった。3万円渡して釣銭はいらないと云ったら運転手は喜んで帰って行った。
 ホテルに入るなり、ホテルの人達は驚いていた。アル中なんてそんなに簡単に治るの?。フロントに地元の若い太った女性が入ってきた。その女性は一週間もすると私の事を禿と悪口を云う様になった。私は禿と云う度にその女性の胸をワシズカミにした。浜の人達は口は悪いが、その女性は格別に悪かった。それはお客様の居ないフロントでの事であった。又禿と云ったので胸をワシズカミにした。その女性は目を閉じる様になった。周りを確認して口を吸った。フロントでは人に見つかる可能性があるのでエレベーターの中とか、トイレの中でキスをする中になっていた。お互いにフロントを兼務して別の仕事をやっていたので、二人で長時間フロントを空ける訳にはいかず、セックス迄は至らなかった。そんな頃、従業員食堂でキスをしているのを誰かに見られてしまった。狭い館内で噂になってしまい立場が無くなってきた。そんな彼女にお見合いの話しがあり会社を辞めていった。大分年齢の差もあり好きだの嫌いだのと云う感情はなかった。それよりも大変の事故が起きた。ボイラーで焚くタイヤを運搬に行く若い連中が、前の晩に徹夜でマージャンをして、そのまま仙台に向かい、帰り道に居眠り運転で対向車に多額の損害を与えると云う事故を起こしてしまった。私もマージャンはするが、その時にはそのメンバーには入っては居なかった。しかしホテル側は運転に非常に厳しくなり、先ず調理場の若い奴で飲んで運転する奴は直ちに首になった。その頃の私は酒が止まっていた。
 又県外出張の日がやってきた。今度は鶴岡、酒田を廻り、常に飛ばしがちになる羽後本荘へと廻った。それ迄酒を止めていたのだが、そこのホテルは食堂が合同でしかも隣席の仕切りも無い食堂であった。その代わり注文が楽であった。従業員のサービスが行き届く訳である。上手な営業の仕方もあるなあと感心していたのも束の間、隣の客が晩酌を飲みだしたのである。私も直ちにご飯を食べるのは一寸気が引けて酒を注文してしまった。その食堂の終了が早く、あまり飲まずに済んだ。ところが翌日新庄の或るエージェントで鳴子時代の所長と出会い、意気投合してしまった。鳴子の別のホテルで出世している仲間の処に行き、大変な飲み会となってしまったのである。しかも宿泊代迄面倒を見てもらったのである。半島のホテルには何事も無かった様に帰っていった。翌月又秋田出張の日がやってきた。今度は千秋ラインもスムーズに通れた。エージェントの場所も分かっているので、雄勝町から一気に大曲迄廻れた。よしこれならば秋田の川端の近くのホテルに3連泊で陣取り、あのタクシーの運転手が教えてくれた店に連チャンで行こうと考えた。店に行く前に近くの養老の滝で下地を作り、目指す店に入った。2日目の来店は尚愛想が良く、ママさんにお願いして夕日の丘のデュエットをしてもらった。皆からも拍手がもらえたが、私にとってはママさんの吉永小百合の声に涙が流れる程嬉しかった。次の日も市内を一生懸命廻り、角館迄行って帰ってきた。養老の滝は安いしママさんの店には行けるし天国であった。3日目も東能代、能代、大館迄行っても川端に帰ってきたのである。流石3連チャンであの店に行く気になれず、変な所を梯子して財布は万歳をした。宿代は前もって精算済みだし、例によって飲む前にガソリンは満タンにしてあり、心配はなかったが、次の日ホテルから時間ですと起こされる迄、目が覚めなかった。
 そろそろオフシーズンの準備に入る頃、副支配人が釣り船の件で物凄い権幕でクレームをつけてきた。私はその釣り船に関しては何もタッチしていないと云ったのだが、いかにも私がその船の予約を受けた様に食ってかかってきたのである。それはカツオの釣り船の件であった。私は知らないとはっきり言ったのだが、この辺でカツオなんか釣れる訳がないとか、ぐずぐずと文句を並べるのである。これには私も参った。ストレスが心に残ってしまった。その翌日秋田の交通公社から打ち合わせに来て呉との連絡が入り、臨時の出張になった。昨日のストレスの件もあり、私は喜び勇んで出張にでかけた。この出張が私のこのホテルの最後の仕事になるとは知る由もなかった。(長いのと、これ以降、自助グループメンバーのプライバシーに関係する部分が出るので、この辺で終わらせていただきます。Tさんはこれ以降、断酒が15年以上、平成18年7月の現在まで続いています。)

  

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